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★地域の魅力紹介★飾磨の街道沿いに残る町屋と町並み印刷用ページ

時期:平成29年7月
エリア:姫路市飾磨区


 山陽電車「飾磨駅」から南へ、国道250号を横断し、浅田化学工業(株)正門前に「銀の馬車道」の表示があります。ここを起点に、北に飾磨街道(銀の馬車道)、西に網干街道沿いに残る町屋の町並みを紹介します。
赤レンガ壁と塀
旧飾磨津物揚場跡の赤レンガ壁の倉庫の一部と塀が残る
 飾磨街道(銀の馬車道)は、平成29年4月、日本遺産に認定されました。飾磨港を起点とした生野銀山、明延鉱山への銀の馬車道、鉱石の道のストーリーは別途楽しんでいただくことにして、飾磨港周辺の町並みを散策して行きます。

<銀の馬車道 終点> 
 明治初期に政府は、生野銀山の増産をめざし、外国人技術者による最新技術の導入による近代化を図りました。そのひとつがフランス人のレオン・シスレーによる馬車道造成で、飾磨津物揚場築造も手がけています。現在の浅田化学工業の敷地一帯が、当時は倉庫、荷積場として利用されており、生野銀山と同じ赤レンガ造りの建物が建てられていました。レンガは生野で作られ馬車道で運搬されたもので、同場所に赤レンガ壁の倉庫の一部と塀が現存しています。

<飾磨街道 -銀の馬車道->
 「飾磨津」は飾磨の海岸で、船が着き客や荷物が乗り降り、積み卸しが行われたことが由来で、古くから野田川河口に開け、16世紀頃には大量輸送が海路で行われ始めると、瀬戸内海の往来船や北前船の寄港する港として賑わいました。
 姫路から生野までの道は、人の移動も少なく、2メートル程度の道幅であったようです。これを馬車専用道路として幅6〜7メートルの舗装した生野銀山から飾磨津までのまっすぐな「生野鉱山寮馬車道」(通称:銀の馬車道)に整備したものです。明治6年(1873年)に完成しましたが、明治27年(1894年)には、播但鉄道が姫路〜寺前間に、翌年には飾磨港から生野までの全線を開通しています。輸送の主力は、蒸気機関車に移っても、昭和の始め頃までは、飾磨街道沿いには、蹄鉄屋、馬具店などが軒を並べ、大いに繁盛したそうです。当時をしのぶ家並み、町並みが残っています。
 旧飾磨津物揚場跡から、飾磨駅を経て北へ続く飾磨街道沿いには、往時は建物の妻面のそば軒が隣と重なり合った住宅が100戸並び続き、雨降りには軒伝いで行き来できたと伝えられています。
 街道沿いの玉地地区には明治20年代の建築の今村家住宅があります。
飾磨街道(玉地・今村家住宅)
飾磨街道(天神・今村家住宅)
<網干街道>
 旧飾磨港物揚場跡から西方向、天神筋を経て思案橋方面に、町並みが残っています。天神地区の中島家住宅は、文政6年(1832年)建築の「中利商店」の店構えが残されています。同住宅の紹介には、「北前船の廻船問屋で、主屋の向こう側には土蔵が建ち並んでいたという。主屋は間口6間、奥行き6間半もある大型の町屋である.外観は2階に小さな虫籠窓を開け、1階には出格子を構えるなど、伝統的な形式が保存されている。」とあります。
 同じ姫路の町屋の描写は、玉岡かおる著「お家さん」に「姫路は裕福な商家だけが虫籠窓に飾られた二階を持っとりましたが、いずれも武家に遠慮しての、低い、不便なものやった」とあり、当時の繁栄が想像されます。
 
天神  中島家住宅
網干街道(天神・中島家住宅)
 大浜地区では、黒漆喰の大きな商家があり、犬矢来(犬やらい)を見かけます。付近では、うだつの上がった住宅も多くあり家紋や屋号の細工なども楽しむことができます。
 また、街道沿いの町並みの中に、風情を残したままの古民家を改装したカフェがあります。土間から畳敷きの間へ上がり、奥の間、坪庭と家の中の様子も楽しむことができます。 
網干街道沿いの古民家カフェ
古民家を改装した「カフェ」
 <せっかくなので>
 付近には、法然上人ゆかりの知宝寺や姫路藩の西洋型御用船「神護丸」の絵馬が奉納されている恵美酒宮天満神社など、寺社が多く、街道から外れた街角でも、徒歩と回船で旅した頃の港町の町並みを楽しむことができます。(投稿職員:メタボオンライン)
 
飾磨駅付近〜旧飾磨港物揚場跡 地図

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