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  睦月島歴史探訪と地引網クルージング 同行記

睦月島歴史探訪と地引網クルージング 同行記

 睦月島(むづきじま)は、松山観光港から直線では約8.6km沖合いにあり、忽那諸島の一つである。
この「忽那(くつな)諸島」は、離島振興法によると、『野忽那島、睦月島、中島、怒和島、津和地島、二神島、釣島』の7島からなり、俗に「忽那七島」と呼ばれている。
 「松山島博覧会2010」では、これら7島に『安居島、鹿島、興居島』を加え、10島を忽那諸島としている。
 この忽那諸島は平安〜戦国期にかけて、忽那氏が治めたところで、忽那氏の祖は平安時代の1072年に藤原親賢が「忽那」氏を名乗り、この人を忽那一族の初代としている。

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 夏休みが始まる2010年7月19日『海の日』に、松山観光港ターミナルの開業10周年記念と「海の月間」行事として、『睦月島歴史探訪と地引網クルージング』が行われるということで、行事に合わせて梅雨も明け、愛媛運輸支局からも、お手伝い(・・?)と取材を兼ねて同行させて頂くことにしました。

 この行事の企画は「松山観光港ターミナル(株)」、実施にあたっては中島汽船(株)の「第二ななしま(528総トン)」を使用することもあって、中島汽船(株)石崎汽船(株)・松山観光港ターミナル(株)の皆さんが、受付から現地での案内まで一生懸命に、そして、とても楽しげに取り組んでいました。

 当日の朝7時30分、中島汽船(株)・石崎汽船(株)・松山観光港ターミナル(株)の皆さんは既に受付の体制も万全で、準備(^.^)b OK!

 港の朝はとても清々しく、古のエッセイストは『夏は夜…』と言ったそうですが、夏の朝もなかなかどうして良いですよねっ!“S少納言”さん!
 そんな夏の朝日と海を渡ってくる爽やかな風の中、続々と参加者の皆さんが集まってきます。

 予定した参加者37組・155名が全員揃ったところで、期待を胸に乗船です。

 船内では、この日の行事内容、注意事項、スタッフ紹介が行われ、睦月島まで暫しの間、瀬戸内海の多島美と海を渡る爽やかな風を船旅の供に…。

 往復の船内で、一般の方に内航船員の理解を深めて頂くために、愛媛県内航船員対策協議会による「内航海運」を紹介するパネル展示とDVD上映も併せて行われました。




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 島の歴史に触れる前に、「親子」一緒になって最初のイベント「地引網」に挑戦します。
 今どきファッションのお母さんも、日頃は仕事で忙しいお父さん達も、お子さんと一緒に、地元の漁師さんの指導で力を合わせて網を上げます。
 この時ばかりは、“カ〜〜〜”と音がするほど照りつける太陽よりも、夫々の手の先の「網の中」が気になるようですね。

 網が手前に近づくたびに「おー!入ってる。」とか「ほら、跳ねてるっ!」などの歓声がどんどん大きくなって、この日の“大物”のスズキ2尾、鯛1尾が見えると「うぉー!!、、わぁ!」と大歓声が起こりました。
 大人達でも釣りをしない人なら、今まさに生きている魚を目にすることは稀なのでしょう。
 獲れた魚は帰りのお土産に、大物3尾は帰りの船内で抽選ということになりました。

 さて、地引網の後は、地元の方によるボランティア・ガイドで、睦月島の「歴史探訪」です。
 ことに、1991年の台風19号による被害は、想像を絶するものがあったようで、永年丹精をしてきた島のミカンの木などが大量に枯死した様は、今思い出しても凄まじいものだったようで、お話を聞きながら汗とは違うものが、込み上げて来ました。
 それにしても、今、全山緑に覆われた景色を見るとき、罹災後の復興へのご努力にも頭が下がる想いでした。

 時間の制約もあって、島全部というわけにもいかず、 (1)長屋門を持つ民家、 (2)注連石、 (3)當田八幡神社、 (4)夫婦楠、などをご案内頂きました。
【長屋門を持つ民家】

 睦月島は『縞売り』と呼ばれる行商が盛んで、伊予絣などの反物を背負って全国を売り歩き、大きな成果を挙げたそうで、その名残が立派な長屋門を持つ民家だそうです。
 今のように物資の輸送が便利でなかった頃のこと、これだけの建築を島で建てることを考えると、「縞売り」の人々の努力と勤勉さが柱の一本一本、壁の一刷毛一刷毛に込められているようです。
【三輪田米山の書になる注連石】

 写真では良く分からないと思いますが、この石柱(「注連石」しめいし)は小学校の校門の前にあって、一見するととても立派な「校門」に見えるのですが、この注連石はどうやら「當田八幡神社」の鳥居まで真っ直ぐに続いているので、参道になっているようです。
 三輪田米山(1821年2月12日-1908年11月3日)は、伊予三筆の一人だそうで、向かって右側に「孳孳」左側に「為善」、左右あわせて「じじぜんをなす」と読むそうです。
 この言葉は孟子の「鶏鳴而起、孳孳為善、舜之徒也」なのですね。働き者の島の人々を見てか、島の将来を背負う子供らに託したのか、小学校の門前に相応しい書ではあります。
【當田(とうだ)神社の絵馬】

 注連石から進むと「當田神社」があります。
 綺麗に掃き清められた境内は木々に覆われ、海から吹く風が汗ばんだ頬に爽やかです。
 ここの境内には、往時の繁栄を示すように、立派な絵馬が奉納されています。水軍の島であったためなのでしょうか、戦の様子を描いた絵馬が多いように思われます。
【夫婦楠】

 左の写真は當田八幡神社から少し行った所にある「玉善寺」の境内にあって、周囲が7mもある大楠で、途中から幹が二股に分かれていることからこの名前がついたようです。
 この楠はあの19号台風の塩害にも負けず、島の人達の希望となったのだそうです。

夫婦楠の遠景

【島の風景】

「路地」
 睦月島に限らず、忽那諸島の島々にある家々の間をこのように細い路地で繋がっていて、ヒトの身体を駆け巡り、様々な器官を結ぶ血管のようです。

「テングサ干し」

 炎天下の下、あちらこちらでこのようなテングサ干しの光景が見られます。 別な機会に頂いた「テングサ100%の心太」は絶品でした。d(^◇^)♪ Very Good!

【釣島(つるしま)】
【釣島灯台】

 釣島へは、中島汽船(株)のフェリーが1日1往復しています。
 釣島ではなんといっても、1873年に築造された、釣島灯台とこれに付属する英国風の「旧官舎」が有名です。
 釣島灯台は「灯台の父」といわれた英国人リチャード・ヘンリー・ブラントンさんの設計で、2年の工期を費やして造られたものだそうです。
 この灯台には洋式建築の「官舎」も付属しており、1963年に無人化後は手付かずであったものを、平成7年度から3年をかけて松山市が復元したものです。この「旧官舎」は年2回一般公開がされるそうです。
 釣島水道を見ながら、明治初期に釣島の標高58mの場所にこれだけのものを造るということを考えると、遥々イギリスからいらしたブラントンさんはじめ、当時の人々のご苦労が偲ばれます。
【蛸壺】

 忽那諸島では蛸壺漁が盛んで、ここ釣島も同様らしく港に着くとすぐ目の前に「蛸壺」が積み上げられていて、その様子からすると、この蛸壺は現役なのですね。
 筆者の恥を曝すのですが、「蛸壺」でタコを獲るというのは、比喩的な表現だと思っていました。現物を見て納得です。σ(;^_^)
 灯台への道すがら、これらの蛸壺とテングサの天日干しがあちこちに見られます。
【釣島水道の風景】

 忽那諸島の島々は平野部が少ないのですが、少し高みへ上ると、素晴らしい『瀬戸内のパノラマ』が眼前に広がります。
 この景色だけでも、島へやってきた価値があったと感動できます。
 カメラで四角に切り取るのではとても表現しきれませんが、是非サムネイルをクリックして、大きい写真をご覧下さい。

【忽那諸島の夏景色】

 瀬戸内海、殊に忽那諸島を巡る海の景色はとても素晴らしく、まさに『筆舌に尽くし難い』とは、このことですね。
 稚拙ながら、下に写真を掲載させて頂きますので、是非ご覧になって下さい。

 また、「壁紙サイズ」としましたリンク先の写真は、横幅1280ピクセル×縦866ピクセルですので、貴方のデスクトップサイズにあわせて「リサイズ」して下さい。 このほかの写真から【スクリーンセーバー 忽那諸島〜夏〜】も作成致しました。 拙作ですが、よろしければ、左のリンクを右クリックして、貴方のPCに保存してご使用下さい。m(._.)m

「海」のメインストリート〜瀬戸内海
 

パノラマ〜瀬戸内海

【忽那諸島へのアクセス】

<参考文献>

・『三津界隈はええとこぞなもし』 山野芳幸 著
・『忽那水軍の実像』 忽那祐三 著
・島LOVE(しまらぶ) 松山島博覧会実行委員会


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旅人・書いた人:四国運輸局愛媛運輸支局 岡部年雄


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