九州物語

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徐福渡来
伝記
徐福渡来
佐賀 宮崎
関連する物語
  • 映画
    「徐福さん」
    (岡本明久監督)
  • 小説
    「蓬莱」(今野敏著)
  • うんちくの旅
    第二巻
    10.九州の徐福伝説を訪ねて その[1](北部九州編)
    11.九州の徐福伝説を訪ねて その[2](南九州編)
観光情報
  • 徐福像(諸富町)
  • 徐福長寿館
  • 金立神社
  • 新北神社
  • 童男山古墳
  • 金峰山
  • 串木野市冠岳
物語の概要

徐福長寿館

  1. 今から2,200年前、秦の始皇帝が不老不死の薬を求め、神仙の術を行う方士の1人である徐福が「東海に蓬莱島あり、島上に仙山あり、山上に仙草あり、食すれば不老不死を得る」と進言し日本へ旅立った、一行は上陸地を探すために盃を浮かべ、流れ着いたところに上陸した(浮盃)。その時海が荒れ、船が沈もうとしたのをアミが助けたため、この地の人はアミをとらないという。上陸する際、芦をかき払って上陸したため片葉の芦となる。その後、手を洗うために井戸を掘り、金立へ旅たつときにここを第2の故郷と思いビャクシンを植えた。
関連観光情報 〜物語には直接出てきませんが、地域やテーマの関連する観光情報です。〜
  • 金立山

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神功皇后
伝記
神功皇后
福岡 長崎 熊本
関連する物語
  • 小説
    「女龍王神功皇后」
    黒岩重吾著
観光情報
  • 月読神社(長崎県壱岐市)
  • 湯ノ本温泉(長崎県壱岐市)
  • 宇美八幡宮
  • 御手洗さん(植木町)
物語の概要

宇美八幡宮

  1. 神功皇后は古墳時代の皇族。
  2. お腹に子供を妊娠したまま海を渡り、朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻め、新羅は戦わずして降服した。
  3. 航海の際、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石をあてて出産を遅らせた。月延石は3つあったとされ、それぞれ長崎県の壱岐市、京都市の月読神社と福岡県二丈町の鎮懐石八幡宮に奉納されたと言われる。その帰路、福岡県の宇美で出産し、志免でおしめを代えたと伝えられる。その他、長崎県壱岐市の湯ノ本温泉で産湯をつかわせたなど、九州に縁の深い人物であったと推測される。
関連観光情報 〜物語には直接出てきませんが、地域やテーマの関連する観光情報です。〜
  • 姉子の浜鳴き砂(福岡県二丈町)
  • 猿岩(長崎県壱岐市)

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孫文
伝記
孫文
福岡 長崎 熊本
関連する物語
  • ノンフィクション
    「孫文」(陳 舜臣著)
  • ノンフィクション
    「人ありて〜頭山満と玄洋社」(井川聡・小林寛著)
  • 映画
    「宋家の三姉妹」
    (1997年・香港・日本合作)
  • 映画
    「孫文」(1986年・中国・日本ロケ、日本人俳優出演)
観光情報
  • 料亭「花月」
    (長崎市丸山・孫文の写真)
  • 宮崎四兄弟の生家
    (熊本県荒尾市)
  • 玄洋社記念館
    (福岡市中央区舞鶴)
物語の概要

孫文銅像

  1. 1866〜1925年。中国革命の先導者。共和制を創始して国父と称された。
  2. 香港の西医書院在学中、革命を志し、マカオ・広州で反清運動に入った。以後、武力闘争・独立運動を試みるが失敗を繰り返した。日本に亡命し、1905年中国革命同盟会を結成し、反清武装蜂起を反復した。11年10月,辛亥革命の勃発を知り,帰国。臨時大統領に推されて、中華民国を発足させたが,袁世凱に政権を渡した。宋教仁暗殺を契機とする第二次革命に破れ、日本に再び亡命し、中華革命党を結成。広東を中心に政権樹立に務めた。さらに中国国民党を改組し中国共産党と提携(国共合作)して、国民革命を推進させようとしたが北京で客死した。
  3. 日本亡命中、孫文は多くの日本人思想家と交流。熊本県出身の宮崎寅蔵(滔天)は彼を生家にかくまった。福岡出身の頭山満は最初の亡命では資金援助、二度目の亡命では日本入国の交渉を果たしている。
関連観光情報 〜物語には直接出てきませんが、地域やテーマの関連する観光情報です。〜
  • 「日本九州——孫中山の足跡を訪ねて」中国中央電視台海外番組センター、九州観光推進機構が共同制作

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フランシスコ・ザビエル
伝記
フランシスコ・ザビエル
長崎 大分 鹿児島
関連する物語
  • カルチェ・ラタン(佐藤賢一)
  • うんちくの旅
    第一巻
    21.ザビエルと西海の天主と御堂巡礼その[1]
    22.西海の天主と御堂巡礼 その[2]
    23.西海の天主と御堂巡礼 その[3]
観光情報
  • ザビエル上陸記念碑
    (鹿児島)
  • 福昌寺(鹿児島)
  • 西鹿鳴越道
  • ザビエル記念像(大分市)
物語の概要

聖フランシスコザビエル記念教会

  1. 日本にキリスト教を伝導したことで有名。カトリック教会の宣教師で、イエズス会創設者の1人。
  2. 1549年、鹿児島に上陸し、平戸、山口、大阪、京都、大分と各地で布教活動に努めた。
  3. 1551年、フランシスコ・ザビエルは、山口から険しい山道を経て大友義鎮(宗麟)の待つ豊後府内に向う際に、日出町の西鹿鳴越道を通り、日出の港に来航したポルトガル船に乗り府内へ向かったとされる。
関連観光情報 〜物語には直接出てきませんが、地域やテーマの関連する観光情報です。〜
  • 鹿児島カテドラル・ザビエル記念聖堂
  • 『ザビエルの道』ウォーキング大会 
  • 経塚山ミヤマキリシマ鑑賞会
  • ざびえる(銘菓)
  • 平戸切支丹資料館
  • ザビエル記念聖堂(平戸)

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宮本武蔵
伝記
宮本武蔵
福岡 熊本
関連する物語
  • 小説
    「宮本武蔵」吉川英治著
  • テレビドラマ
    「武蔵MUSASHI」NHK
  • 漫画
    「バガボンド」
  • うんちくの旅
    第一巻
    11.それからの武蔵
    第三巻
    7.九州の武道文化を探る旅
観光情報
  • 宮本武蔵の碑
    (武蔵の養子伊織が建立。小倉北区手向山公園)
  • 武蔵小次郎祭り(4月、小倉北区手向山公園)
  • 雲巌禅寺
    (熊本市松尾町平山)
  • 島田美術館(平成19年9月30日まで閉館)(熊本市島崎) 
  • 武蔵塚公園
    (熊本市龍田町弓削)
物語の概要

宮本武蔵像 熊本

  1. 宮本武蔵(みやもとむさし)(1584〜1645)
  2. 1584年播磨国(現兵庫県)に生まれたとも、1582年生まれとも、また美作国(現岡山県)出身とも言われている。10代にして兵法、武道を志し、13歳の時初めて新当流の有馬喜兵衛と勝負をして勝ち、以来29歳の頃までに60回を超える勝負に挑み一度も敗れなかったという。武蔵と名乗るようになったのは17歳の頃からだった。佐々木小次郎を破ったエピソード「巌流島の戦い」は有名。武者修業時代に学問の必要性を痛感した武蔵は人間としてより深い道理を得るため約30年の諸国放浪の旅に出る。熊本に来たときは57歳になっていた。熊本で過ごした晩年の5年間に「兵法三十五カ条」「五輪書」「独行道」などの書物を書き上げた。なかでも60歳になった武藏が金峰山西麓の雲巌禅寺奥の霊巌洞にこもって書き上げた「五輪書」は二天一流の集大成ともいえる兵法書。1645年、62歳の武蔵は「死後も細川藩候の参勤行列の無事を見守りたい」と言い残してこの世を去った。遺言通り、甲冑具足に身を固め両刀を抱き、立ち姿のまま大津街道沿いの武蔵塚に葬られたと言われている。現在は武蔵塚公園として整備されている。
関連観光情報 〜物語には直接出てきませんが、地域やテーマの関連する観光情報です。〜
  • 小倉城
  • 熊本城

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田中久重
伝記
田中久重
福岡
関連する物語
  • 小説
    「田中久重」(童門冬二著)

  • 「からくり儀右衛門〜東芝創立者田中久重とその時代」(今津健治著)
観光情報
  • JR久留米駅前からくり時計
  • 郷学の森(同市通町)
  • 田中久重生誕地の碑(説明版も設置してある。)
物語の概要

2006.9.1(1164号) 田中久重像

  1. 株式会社 東芝 の創始者。
  2. 「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれ、江戸末期から明治にかけて活躍した発明家。
  3. 1799(寛政11)年べっこう細工師 田中弥右衛門の長男として生まれた。幼い頃から持ち前のユーモアセンス、アイデアを活かして、からくり人形から万年時計、蒸気船など、日本の近代化を強力に後押しした。
  4. 井上伝の依頼を受け、久留米かすりにも大きく貢献した。
  5. 万年時計は、愛・地球博で154年ぶりに再現された。
関連観光情報 〜物語には直接出てきませんが、地域やテーマの関連する観光情報です。〜
  • 五穀神社(市内通町)
  • 久留米かすり(井上伝)
  • 久留米市観光ボランティアガイドの会

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八女津媛物語
伝記
八女津媛物語
福岡
関連する物語

観光情報
  • 八女津媛神社
  • 八女津媛神社の浮立館
物語の概要

八女津媛神社

  1. 日本書記の中にはじめて八女の地名がみえる。景行天皇がこの地を巡幸されたとき、「東の山々は幾重にも重なってまことに美しい。あの山にたれか住んでいるか」と尋ねられた。そのとき、水沼の県主「猿大海」が「山中に女神あり。その名を八女津媛といい、常に山中におる」と答えたことが記録されている。これから八女の地名が起こったといわれている。
関連観光情報 〜物語には直接出てきませんが、地域やテーマの関連する観光情報です。〜
  • 八女市観光ボランティア
  • 八女福島町並みガイドの会
  • 八女伝統工芸館

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野村望東尼
伝記
野村望東尼
福岡
関連する物語
  • 小説
    「青梅」(古川薫著)
  • うんちくの旅
    第二巻
    14.明治の群像 その[2]
観光情報
  • 野村望東尼遺跡
    (志摩町姫島)
  • 野村望東尼お堂
  • 野村望東尼像
物語の概要

姫島

  1. 1806年福岡藩士の三女として福岡城下に生まれ歌人として活躍していたが、幕末期、勤王運動を陰で支え志士たちを匿ったり荷担したとして、福岡藩の「乙丑の獄」で姫島に流刑になった。1865年11月より、高杉晋作の命で翌年9月に救出される間の10ヶ月間姫島で幽閉生活を送った。島民との交流をうかがわせる品々や歌が残されている。
関連観光情報 〜物語には直接出てきませんが、地域やテーマの関連する観光情報です。〜
  • 平尾山荘(福岡市)
  • 福岡市観光案内ボランティア

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黒田如水
伝記
黒田如水
福岡
関連する物語
  • 小説
    「播磨灘物語」(司馬遼太郎著)
  • 小説
    「黒田如水」(吉川英治著)
  • 小説
    「黒田如水」(童門冬二著)
  • 小説
    「二流の人」(坂口安吾著)
  • 小説
    「軍師の境遇」
    (松本清張著)
  • 小説
    「黒田・三十六計」
    (平田弘史著)
観光情報
  • 福岡城址
    (福岡市中央区舞鶴)
  • 大濠公園
    (福岡市中央区大濠)
  • 友泉亭
    (福岡市城南区友泉亭)
  • 横嶽山崇福寺
    (福岡市博多区千代)
物語の概要

福岡城01

  1. 1546〜1604年。戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。忌み名(本名)は孝高(よしたか)。通称官兵衛。如水は隠居出家後の号。
  2. 知略にかけては天才的な手腕を発揮し、姫路城代から織田信長臣下、秀吉側近となった。しかし秀吉にとっては彼の智謀こそが最も恐ろしく、そのため他の臣下よりも低い扱いにし、領地も自分から遠い豊前国中津城を与えた。
  3. ドン・シメオンという洗礼名を持つキリシタン大名でもあった。秀吉が禁教令を下すとすぐに棄教した。
  4. 1589(天正17)年、家督を嫡男の黒田長政に譲って隠居。関ヶ原の合戦の後、長政は家康から勲功第一として筑前名島(福岡)で52万3000石を与えられた。如水も中津城から福岡城に移り、隠居生活を送った。慶長9年3月20日(1604年4月19日)、京都伏見藩邸にて死去。享年59。
関連観光情報 〜物語には直接出てきませんが、地域やテーマの関連する観光情報です。〜
  • 和菓子店「五十二万石如水庵」
  • 吟醸「如水」
  • 博多百年蔵(石蔵酒造・先祖は黒田家御用商人として如水と共に福岡に移った)

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山本作兵衛
伝記
山本作兵衛
福岡
関連する物語
  • 画集
    「明治大正炭坑絵巻」
  • 画集
    「画文集 炭鉱に生きる」
  • 画集
    「山本作兵衛画文 筑豊炭坑繪巻」
  • 画集
    「王国と闇」
観光情報
  • 田川市石炭記念公園
  • 田川市石炭・歴史博物館
物語の概要

田川市石炭資料館 

  1. 1892年〜1984年
  2. 7歳から坑内に入り、50年以上働いた生粋の炭鉱労働者である。
  3. 1962年田川地区の炭鉱の鉱主仲間を中心に画集を出版しようという計画が持ち上がり、翌年「明治大正炭坑絵巻」が完成した。
  4. 作品140点に伝記を加えた「画文集 炭鉱に生きる」、彩色画と墨絵を合わせた画集「山本作兵衛画文 筑豊炭坑繪巻」、山本作兵衛炭坑画集「王国と闇」で全国にその名を知られた。
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  • 田川市美術館
  • 岩屋鍾乳洞

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柳原白蓮
伝記
柳原白蓮
福岡
関連する物語
  • 小説
    「白蓮れんれん」
    林真理子著
  • 小説
    「恋の花 白蓮物語」
    永畑道子著
  • 小説
    「真珠婦人」菊池寛著
  • 小説
    「恋の華 白蓮」NHK
  • 映画
    「麗人」松竹
  • うんちくの旅
    第一巻
    45.”恋の華”柳原白蓮と”炭坑王”伊藤伝右衛門
    第三巻
    15.〜広い範囲で〜世界遺産を目指す
    20.九州の女性、愛(哀)の物語り〈北部九州編〉
観光情報
  • 旧伊藤伝右衛門邸
    (飯塚市幸袋300番地)
  • 飯塚歴史資料館
    (飯塚市柏の森959-1)
  • 宮崎兄弟資料館
    (荒尾市荒尾949番地1) 
物語の概要

旧伊藤伝右衛門邸 

  1. 柳原白蓮 本名Y子(あきこ)。伯爵柳原前光の非嫡出子として明治18年生れ。大正天皇の従姉妹。
  2. 25歳で再婚。相手は九州の炭鉱王、伊藤伝右衛門。
  3. 佐々木信綱の門下生となり、歌人として注目を集める。
  4. 彼女の戯曲「指蔓外道(しまんげどう)」の上演以来のために訪れた東京帝大法学部の学生で、雑誌『開放』の編集をしていた宮崎龍介と運命的な恋愛。宮崎は彼女よりも7歳年下だった。
  5. 白蓮は伊藤と上京した際に失踪、二日後、「私は金力をもって女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の訣別を告げます」という公開絶縁状を朝日新聞に掲載。伊藤は毎日新聞にその反論を掲載し、世論はこの問題に沸騰した。
  6. 結末は、Y子の華族からの除籍と総ての財産没収で事態収拾、離婚となった。
  7. 生涯を龍介とともにし、穏やかさと、強さを秘めた女性として今も根強いファンを持つ。
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  • 麻生大浦荘(飯塚市柏の森)
  • 嘉穂劇場(飯塚市飯塚5番23号)
  • 旧高取邸(唐津市北城内5-40)
  • 筑前いいづか雛の祭り
  • 定期観光バスツアー
  • 九州観光推進機構「うんちくの旅39」
  • いぶき館(東峰村)
  • 九兵衛茶屋(日田市)

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麻生太吉
伝記
麻生太吉
福岡
関連する物語

観光情報
  • 勝盛公園
  • 大浦荘
  • 嘉穂劇場
物語の概要

嘉穂劇場

  1. 日本の実業家、政治家。1857(安政4)年、筑前国嘉麻郡立岩村字栢ノ森(現:福岡県飯塚市)生まれ。株式会社麻生の前身である麻生商店の創業者で麻生グループの礎を築いた。
  2. 炭鉱業からスタートし、鉄道事業やセメント事業なども手掛けた。また、政治家として衆議院議員や貴族院議員等を歴任した。
  3. 1933年(昭和8年)没
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  • 伊川温泉
  • 筑豊緑地公園

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高倉健
伝記
高倉健
福岡
関連する物語
  • 映画
    「網走番外地」シリーズ
  • 映画
    「日本侠客伝」シリーズ
  • 映画
    「八甲田山」
  • 映画
    「鉄道員」
など
観光情報

物語の概要

「望郷の詩」

  1. 高倉 健(1931年2月16日 - )は福岡県中間市出身の映画俳優、歌手。半世紀にわたり日本を代表する映画スターの座に君臨している。近年は中国でも人気がある。
  2. 代表作は映画『網走番外地』シリーズ、『日本侠客伝』シリーズ、『昭和残侠伝』シリーズ、『山口組三代目』シリーズ、『八甲田山』、『南極物語』、『鉄道員』など。邦画史に残る作品に数多く出演。
  3. 愛称は健さん。1959年に歌手・女優の江利チエミと結婚したが、1971年に離婚。その後は独身を通している。
  4. 2006年に文化功労者に選ばれた。
  5. 江戸時代末期に『東路日記』を記した筑前の庄屋の内儀・小田宅子(おだいえこ)は先祖にあたる。
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古賀政男
伝記
古賀政男
福岡
関連する物語
  • 書籍
    「評伝古賀政男 青春よ永遠に」
  • 書籍
    「謎の森に棲む古賀政男」
観光情報
  • 古賀政男音楽博物館
  • 古賀政男命日祭
物語の概要

古賀政男記念館

  1. 1904(明治37)年、福岡県田口村(現在の大川市)に生まれる。大阪の商店に勤めた後、苦学して明治大学に進学。在学中にマンドリン倶楽部創設の一翼を担う。
  2. 在学中に『影を慕いて』を発表。卒業後レコード会社の専属の作曲家として数々の作品を発表しヒット曲を生み出す。これらは『古賀メロディー』と呼ばれ日本の歌謡シーンに多大な影響を及ぼした。
  3. 作曲活動のかたわら、音楽親善大使として世界各地をまわる。昭和53年に永眠。没後国民栄誉賞を受賞。
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  • 筑後川昇開橋
  • 大川市立清力美術館

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菅原道真
伝記
菅原道真
福岡
関連する物語
観光情報
  • 太宰府天満宮
物語の概要

太宰府天満宮

  1. 845(承和12)年〜903(延喜3)年
  2. 平安時代の学者、漢詩人、政治家。特に漢詩に優れた。33歳のときに文章博士に任じられる。
  3. 宇多天皇に重用され右大臣を歴任。しかし、左大臣藤原時平 に讒訴され、大宰府へ権帥として左遷され、そこで生涯を終えた。
  4. 道真の死後、朝廷に祟りをなし天神として祀られる。現在は学問の神として親しまれる。
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  • 九州国立博物館
  • 二日市温泉

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森鷗外
伝記
森鷗外
福岡
関連する物語
  • 小説
    「獨身」森鷗外著
  • 小説
    「二人の友」森鷗外著
  • 小説
    「鶏」森鷗外著(小倉三部作)
  • 小説
    「小倉日記」森鷗外著
  • 小説
    「或る『小倉日記』伝」
    松本清張著
  • 小説
    「舞姫」「うたかたの記」「雁」「阿部一族」他
  • うんちくの旅
    第一巻
    44.文学作品の舞台を名作を携えて
観光情報
  • 「森鷗外京町住居跡」
    北九州市小倉北区京町2丁目 JR小倉南口ロータリー西側
  • 「森鷗外旧居」
    北九州市小倉北区鍛冶町1-7-2(093-531-1604)
  • 鷗外の文学碑
  • 鷗外橋
物語の概要

森鷗外旧居 1棟

  1. 1862(文久2)年〜1922(大正11)年
  2. 明治・大正期の小説家、評論家、翻訳家、医学者、軍医、官僚。夏目漱石と並ぶ文豪と称されている。
  3. 本名、林太郎(りんたろう)。石見国津和野(現・島根県津和野町)出身。東京帝国大学医学部卒。
  4. 大学卒業後、陸軍軍医になり、官費留学生としてドイツに留学。帰国後、訳詩編「於母影」、小説「舞姫」、翻訳「即興詩人」を発表し、同時に文芸雑誌「しがらみ草紙」を創刊して文筆活動に入った。
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  • 北九州市立文学館
  • 北九州市観光案内ボランティア

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坂本繁二郎
伝記
坂本繁二郎
福岡
関連する物語
  • 小説
    「青木繁と坂本繁二郎「能面」は語る」竹藤寛著
  • 画集
    「坂本繁二郎水彩画集」
観光情報
  • 石橋美術館
  • 坂本繁二郎資料室
    (八女市立図書館内)
  • 坂本繁二郎の生家
    (2010年 一般公開予定)
物語の概要

2004.9.1(1116号) 坂本繁二郎のアトリエ

  1. 明治後期〜昭和期の洋画家。1882(明治15)年3月2日〜1969(昭和44)年7月14日。
  2. 久留米市出身。洋画家・青木繁とは小学校の同級生で、親友でもありライバルであった。10歳から久留米在住の画家・森三美に師事。
  3. 1956(昭和31)年文化勲章を受章。
  4. 代表作:「水より上がる馬」、「放牧三馬」など
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  • 久留米市観光ボランティアガイドの会

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青木繁
伝記
青木繁
福岡
関連する物語
  • 小説
    「悲劇の洋画家 青木繁伝」渡辺洋著
  • 小説
    「青木繁と坂本繁二郎「能面」は語る」竹藤寛著
観光情報
  • 石橋美術館
  • 青木繁旧居
  • 青木繁 歌碑
    (兜山 通称:けしけし山)
物語の概要

青木繁旧居

  1. 明治期の洋画家。1882年7月13日〜1911年3月25日。
  2. 「海の幸」の作者として有名。
  3. 久留米市出身。洋画家・坂本繁二郎とは小学校の同級生で、親友でありライバルであった。17歳の時に上京。東京美術学校に入学し、黒田清輝から指導を受ける。
  4. 「神話画稿」が白馬会賞を受賞。「海の幸」、「わだつみのいろこの宮」は重要文化財に指定されている。
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  • けしけし祭
  • 久留米市観光ボランティアガイドの会

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百済第25代国王 武寧王
伝記
百済第25代国王 武寧王
佐賀
関連する物語
  • 「日本書紀」
    (雄略天皇5年の条)
  • 朝鮮半島最古の歴史書
    「三国史記」(1145年)
  • 韓国古代史記
    「三国遺事」
観光情報
  • 「生誕したと伝えられる『オビヤ浦洞窟』、産湯を使ったとされる井戸」佐賀県唐津市鎮西町加唐島
物語の概要

加唐島

  1. 『日本書紀』の記述 武寧王の出生の話として雄略天皇紀5年(461年)条に、「百済の加須利君(蓋鹵王)が弟の軍君昆伎王を倭国に人質として派遣する際、一婦人を与えて、途中で子が生まれれば送り返せと命じた。一行が筑紫の各羅嶋(かからのしま;加唐島)まできたところ、一児が生まれたので嶋君と名付けて百済に送り返した。これが武寧王である」としてある。また、即位については武烈天皇紀4年(502年)是歳条には「百済の末多王(東城王)が暴虐であったので、百済の国人は王を殺し、嶋王を立てて武寧王とした」としている。
  2. 『三国史記』の記述 百済24代東城王(在位;479〜501年)の第2子で、高句麗の侵略や父王の暗殺による国力衰退期に、熊津(ゆうしん=公州)で25代王として即位(在位;502〜523年)。高句麗の南進を阻止したり、梁の国へ使節を派遣し親交を深めたりして、失墜していた百済の国際的地位を回復させた「百済中興の祖」として語られている。
  3. 1の記述は、韓国においても注目はされていたものの、自国の史書にはこの記述はなく、長く伝説の域を超えるものではないとされてきた。しかし、武寧王の王陵が発掘され、墓誌石に記された死亡年から逆算すると、『日本書紀』での生誕年がほぼ一致する(1年の相違)ため、にわかに信憑性を帯びてきた。
関連観光情報 〜物語には直接出てきませんが、地域やテーマの関連する観光情報です。〜

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大隈重信
伝記
大隈重信
佐賀
関連する物語
  • 小説
    「円を創った男 小説・大隈重信」(渡辺房男著)
  • 小説
    「風雲の人 小説・大隈重信青春譜」(山崎光夫著)
  • うんちくの旅
    第一巻
    50.偉人の生家(跡)で思うこと(佐賀・長崎編)
観光情報
  • 大隈記念館
  • 大隈重信の墓
  • 佐賀城本丸歴史館
物語の概要

大隈記念館 

  1. 1838年3月11日(天保9年2月16日) - 1922年(大正11年)1月10日)。江戸幕末〜大正期の武士・佐賀藩士、政治家、教育者。第8代、第17代内閣総理大臣。位階勲等は従一位大勲位。
  2. 爵位は侯爵。東京専門学校(現・早稲田大学)の創立者。明治維新に際しては1868(明治元)年、徴士参与職、外国事務局判事に任ぜられた。キリスト教禁令についてのイギリス公使ハリー・パークスとの交渉などで手腕を発揮するとともに、1869(明治2)年からは会計官副知事を兼務し、金融行政にも携わった。1870(明治3)年に参議に補され、1873(明治6)年5月、大蔵省事務総裁、10月から参議兼大蔵卿になった。1881(明治14)年、参議を免官となった。 いわゆる明治十四年の政変である。野に下った大隈は、10年後の国会開設に備え、1882(明治15)年3月には小野梓とともに立憲改進党を結成、尾崎行雄、犬養毅、矢野文雄(龍渓)らが馳せ参じた。
  3. 1898(明治31)年6月に板垣退助らと憲政党を結成し、同年6月30日に薩長藩閥以外からでは初の内閣総理大臣を拝命、日本初の政党内閣を組閣した。俗に言う「隈板内閣」(わいはんないかく)である。1907(明治40)年、いったん政界を引退し、早稲田大学総長への就任。1914(大正3)年には2度目の内閣を組織した。1922(大正11)年1月10日に早稲田で死去、1月17日に自邸での告別式ののち、日比谷公園で未曾有の「国民葬」が催された。墓所は佐賀市の龍泰寺と東京都文京区の護国寺にある。
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  • 佐賀城本丸ボランティアガイド

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江藤新平
伝記
江藤新平
佐賀
関連する物語
  • 小説
    「歳月」(司馬遼太郎著)
  • 小説
    「司法卿 江藤新平」
    (佐木隆三著)
  • うんちくの旅
    第一巻
    50.偉人の生家(跡)で思うこと(佐賀・長崎編)
    第二巻
    14.明治の群像 その[2]
観光情報
物語の概要

<vol.32> 江藤新平銅像 

  1. 1834年3月18日−1874年4月13日。日本の武士(佐賀藩士)、 政治家。新政府が誕生すると佐賀藩も参加し、江藤は副島種臣とともに京都に派遣される。 旧幕府軍との戊辰戦争を行う新政府において江藤は征東大総督府軍監に任命され、江戸へ偵察に向かう。 薩摩藩の西郷隆盛と幕臣の勝海舟の会談で江戸城の無血開城が決定すると、江藤は城内の文書類を接収する。 さらに江藤は京都へ戻り、大木喬任と連名で岩倉に対して江戸(東京)への遷都を献言する。 1870年11月に太政官中弁となる。 1873(明治6)年には朝鮮出兵を巡る征韓論問題から発展した明治六年政変で西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣と共に下野後、 1874(明治7)年1月10日に愛国公党が結成され、同12日民撰議院設立建白書に署名。 16日夜、憂国党の暴発から武装蜂起。士族反乱である佐賀の乱が起こる。 乱は大久保利通率いる政府軍に短期間のうちに敗れ敗走、現在の高知県で捕縛。 処刑・梟首された、享年41。
  2. 墓所は佐賀県佐賀市の本行寺。同市の神野公園には銅像もある。
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  • 神野公園(銅像)
  • 佐賀城本丸ボランティアガイド

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鍋島直正
伝記
鍋島直正
佐賀
関連する物語
  • 小説
    「開国前夜の佐賀藩」
    (古藤浩著)
  • 小説
    「肥前の妖怪」
    (司馬遼太郎著)
  • うんちくの旅
    第一巻
    50.偉人の生家(跡)で思うこと(佐賀・長崎編)
観光情報
  • 徴古館 佐賀市
  • 佐賀城本丸歴史館 佐賀市
  • 佐嘉神社
  • 鍋島直正の墓
物語の概要

<Vol.32> 徴古館 

  1. 1815年1月16日 - 1871年3月8日。江戸時代末期の第10代肥前国佐賀藩主。鍋島斉直の17男。藩主時代の名乗りは斉正(なりまさ)。号は閑叟(かんそう)。1830年、父鍋島斉直の跡を受けて17歳で第10代藩主に襲封。藩主時代は将軍・家斉の片諱をもらい斉正と名乗っていた。1868(明治元)年に直正と改名。当時の佐賀藩は、長崎警備等の負担が重く、さらには先代藩主の奢侈・贅沢もあって、その財政は破綻寸前の状況にあった。直正自身も初入部のため、江戸藩邸を佐賀に向けて出発せんとするやいなや、藩に貸付のある商人たちが藩邸に押し寄せ、借財返済を申し立てたため、直正の行列は進行を停止せざる得ない屈辱的な経験をしている。しかし1835(天保6)年、藩の中枢であった佐賀城二の丸が大火で全焼するという危機にあたり、役人を五分の一に削減するなどで出費を減らし、陶器・茶・石炭などの産業育成・交易に力を注ぐ藩財政改革を行い、財政は改善した。後にアームストロング砲など最新式の西洋式大砲や鉄砲の自藩製造に成功した他、蒸気機関・蒸気船までも完成させることにつながっている。戊辰戦争における上野彰義隊との戦いから五稜郭の戦いまで、最新式の兵器を装備した佐賀鍋島藩の活躍は大きかった。直正自身も議定に就任し、大納言の位を与えられる。1871(明治4)年1月18日、藩邸にて病没。
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  • 佐賀城本丸ボランティアガイド

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佐野常民
伝記
佐野常民
佐賀
関連する物語
  • 小説
    「火城」(高橋克彦著)
  • うんちくの旅
    第一巻
    50.偉人の生家(跡)で思うこと(佐賀・長崎編)
    第二巻
    24.幕末・西洋文化ことはじめ
観光情報
  • 佐野常民記念館
  • 佐賀城本丸歴史館
物語の概要

佐賀常民記念館

  1. 1823年2月8日- 1902年12月7日は、江戸時代後期から幕末の佐賀藩士。明治期には元老院議員となる。日本赤十字社の創始者。官職は枢密顧問官、農商務大臣、大蔵卿。勲等は勲一等。爵位は伯爵。称号は日本赤十字社名誉社員。佐賀の七賢人に挙げられている。佐賀藩士下村三郎左衛門(充贇)の5男として佐賀(肥前国佐賀郡早津江村 現・川副町)に生まれている。 幼名は鱗三郎。1831年に佐賀藩医佐野常徴の養子となり、佐賀藩の前藩主から栄寿の名を授かる。
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  • 佐賀城本丸ボランティアガイド
  • 佐賀藩海軍所跡

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村田英雄
伝記
村田英雄
佐賀
関連する物語
  • 歌謡・民謡
    「無法松の一生」
観光情報
  • 村田英雄記念館
  • 村田英雄音楽祭
物語の概要

村田英雄記念館

  1. 1929年〜2002年。福岡県浮羽郡吉井町出身。
  2. 3歳のときから父梶山春雄の故郷 佐賀県唐津市相知町佐里に一家で引っ越す。4歳から浪曲師として初舞台。13歳から一座を立ち上げる。20歳に単身上京。29歳のときに作曲家古賀政男と出会い「無法松の一生」で歌手デビューする。32歳で「王将」が戦後初のミリオンセラーになる。
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  • 見帰りの滝
  • 鵜殿石仏群
  • 蕨野の棚田
  • 相知くんち

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幡随院長兵衛
伝記
幡随院長兵衛
佐賀
関連する物語
  • 映画
    「花のお江戸の無責任」
  • テレビドラマ
    「幡随院長兵衛お待ちなせえ」
観光情報
  • 幡随院長兵衛記念碑
    (唐津市相知町久保地区)
物語の概要

幡随院長兵衛の碑 

  1. 1614年唐津市相知町生まれ。町奴の頭領で、日本の任侠の元祖とも言われている。実在の人物であるが、芝居等で有名。本名は、塚本伊太郎。
  2. 幡随院長兵衛は、佐賀県伊万里市大川野の日在城主・鶴田因幡守勝の家臣、塚本伊織の子として生まれ、幼名は伊太郎といい、父に伴って江戸へ向かったが、下関にて父は病没。一人で上京し、つてを頼って神田山幡随院に身を寄せ、後に幡随院長兵衛と名乗る。江戸の侠客の総元締めと言われ、庶民の英雄であった彼の生き様は、江戸の華と呼ばれ、「人は一代、名は末代の・・」の有名なセリフで歌舞伎や講談等で今でも演じられている。
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  • 町切の水車

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辰野金吾博士
伝記
辰野金吾博士
佐賀
関連する物語
  • 「東京駅の建築家 辰野金吾伝」(東秀紀著)
  • うんちくの旅
    第一巻
    18.近代日本建築界の父「辰野金吾」ゆかりの建築物を訪ねて
観光情報
  • 武雄温泉 楼門・新館
物語の概要

武雄温泉

  1. 武雄温泉のシンボルの楼門と新館は、日本近代建築の父と言われた唐津出身の辰野金吾博士の設計で大正四年に竣工。
  2. 辰野博士の作品は全国に三十余り残っており、東京駅や日本銀行など、殆どレンガや石造りの西洋建築で、現存する木造建築は奈良の「奈良ホテル」と武雄温泉の「楼門と新館」だけと言われる。
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  • 飛龍窯
  • 黒髪山
  • 川古大楠
  • 武雄温泉ボランティア観光ガイド友の会

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書聖・中林梧竹
伝記
書聖・中林梧竹
佐賀
関連する物語
  • 「中林梧竹の書」
    (日野俊顕著)
観光情報
  • 梧竹観音堂
  • 小城市立中林梧竹記念館
物語の概要

梧竹観音堂 

  1. 日本三大書家の一人。地位や名誉に執着せず、一筋に書を追求した人物。
  2. 西行、芭蕉、良寛らと同じ様に天涯放浪の旅にて書の追求をし続けた事は、今日の芸術文芸の道の在り方を示すものである。
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  • 小城公園
  • 清水の滝
  • 国史跡土生遺跡公園

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有田の三右衛門
伝記
有田の三右衛門
佐賀
関連する物語
  • 映画
    「一三代今泉今右衛門 薄墨の美」
  • 「余白の美 酒井田柿右衛門」
  • うんちくの旅
    第一巻
    33.九州やきもの紀行
    第三巻
    36.人間国宝の作品とゆかりの地を巡る
観光情報
  • 今右衛門古陶磁美術館
  • 柿右衛門窯
  • 源右衛門窯
  • 陶山神社
  • 有田駅に有田焼の陶板が飾られている。
物語の概要

トンバイ塀(有田町) 

  1. 有田の三右衛門とは今泉今右衛門、酒井田柿右衛門、館林源右衛門のこと。
  2. 今泉今右衛門は江戸時代には鍋島藩の御赤用絵師を務めていた。当代は14代で13代は人間国宝の認定を受けた。
  3. 酒井田柿右衛門は初代が乳白色の地肌に赤色系の上絵を焼き付けるという柿右衛門様式を確立。当代は14代。
  4. 源右衛門窯は民窯として240年前から伊万里の焼き物を手がけていた。
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  • トンバイ塀
  • 有田町ボランティアガイド色絵

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高取伊好
伝記
高取伊好
佐賀
関連する物語
  • うんちくの旅
    第二巻
    35.日本をリードした近代化産業遺構〈石炭編〉
    第三巻
    14.世界遺産を目指す
観光情報
  • 旧高取邸
物語の概要

<vol.41> 旧高取邸 

  1. 1850(嘉永3)年〜1927(昭和2)年 。
  2. 明治から大正期にかけて一代で財をなした炭鉱王。西日本を代表する富豪の一人となったが、一方で文化教育事業にも情熱を注ぎ、社会貢献をした実業家である。
  3. 漢詩の詩作や書を能くする教養人、文化人でもあった。
  4. 後年は唐津に居住。唐津市城内の邸宅は、明治時代のわが国の中上流階の住宅遺産の代表作とされ、国の重要文化財に指定されている。
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  • 唐津歴史観光ボランティアガイド

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鉄川与助
伝記
鉄川与助
長崎
関連する物語
  • 写真集
    「天主堂-光の建築」
    雑賀雄二著
  • うんちくの旅
    第一巻
    23.西海の天主と御堂巡礼 その[3]
    第三巻
    18.世界遺産を目指す
観光情報
  • 冷水教会
  • 田平教会
  • 桐の浦天主堂
  • 堂崎天主堂
  • 浦上天主堂
他多数
物語の概要

五島 堂崎教会(奥浦町)

  1. 1897〜1976(明治12〜昭和51)年
  2. 南松浦郡新魚目町丸尾(五島)で生まれる。
  3. 1906年父祖代々の建築業を相続。生涯を天主堂(カトリック教会)の建築に捧げた男。生涯に携わった教会の数はおよそ50にも及ぶ。五島列島にある「冷水教会」は、28才の鉄川が初めて自身による設計・施工を行った木造の天主堂の第1号。2003年10月に重要文化財に指定された「田平教会」は1918年に建築されたレンガ造りの聖堂。壁には色違いのレンガを使用し、見事な模様を演出している。
関連観光情報 〜物語には直接出てきませんが、地域やテーマの関連する観光情報です。〜
  • 長崎市ボランティア観光ガイド

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上野彦馬
伝記
上野彦馬
長崎
関連する物語
  • 八幡政男
    「写真術師上野彦馬」
  • 八幡政男「評伝上野彦馬 日本最初のプロカメラマン」
  • 長野重一・飯沢耕太郎・木下直之編「上野彦馬と幕末の写真家たち」
  • 馬場章編
    「上野彦馬歴史写真集成」
観光情報
  • 上野彦馬の像(長崎市)
  • 長崎市古写真資料館
  • 長崎歴史文化博物館
    (彦馬の写真機を展示)
  • 本蓮寺
  • 長崎県立図書館
物語の概要

上野彦馬像

  1. 1838年10月15日(天保9年8月27日)〜1904(明治37)年5月22日。
  2. 幕末期から明治時代にかけて活躍した日本最初期の写真家。
  3. 代表的な写真に坂本竜馬の肖像写真がある。
  4. 蘭書から湿板写真術を知り関心を持つ。同僚の堀江鍬次郎らと共に蘭書を頼りにその技術を習得し、写真術の研究を深める。その後、堀江鍬次郎と江戸に出て数々の写真を撮影した。
  5. 1862年、故郷の長崎に戻り、中島河畔で「上野撮影局」を開業。坂本竜馬、高杉晋作などの肖像写真を数多く撮影した。
  6. 海外に支店を持つなど写真業繁栄の傍ら、後進の指導にもあたり、多くの門人を輩出した。日本の写真界の祖として、高く評価されている。
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  • 長崎市ボランティア観光ガイド
  • 寺町通り

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加藤清正
伝記
加藤清正
熊本
関連する物語
  • 小説
    「加藤清正」
  • 小説
    「火の国の城」
  • 映画
    「あずみ」
  • うんちくの旅
    第一巻
    27.豊後街道(肥後街道)を歩く
観光情報
  • 熊本城
  • 本妙寺(熊本市花園)
  • 加藤神社(熊本市本丸)
  • 石刎(いしばね)萩原堤、はぜ塘、前川堤
  • 鼻ぐり井手(はなぐりいで)馬場楠井手(白川)
物語の概要

加藤神社 

  1. 加藤清正(かとうきよまさ)(1562〜1611) 
  2. 尾張国愛智郡中村の加藤清忠の嫡男として生まれる。豊臣秀吉に仕え、幾多の実践を経て、百戦錬磨の功を積み、賤ヶ岳の七本槍や京城の一番乗りなど、その武勲は数え切れない。清正は名将であっただけでなく、土木治水に関して手腕を発揮し、領民の信望を集めた。清正が肥後に入国した当時は川は荒れ放題で大きな河川の流域一帯には荒れ地が多く生産力の高い平野はわずかと財政は厳しい状況だったが、石高を増やすため河川の治水工事とともに新田の開発を積極的に行い、実高は増えていき、加藤氏改易後に肥後国を細川氏が引き継いだときは実高75万石だったと言われている。日本名城の一つ熊本城は1601年に着工、1607年に完成したと言われている。熊本城の大きな特徴の一つ「武者返し」は上に行くほど弓なりに反りかえって急勾配になり、敵の侵入を阻むように設計されている。
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  • 加藤神社
  • 清正公まつり
  • 八景水谷公園

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小西行長
伝記
小西行長
熊本
関連する物語
  • 小説
    「小西行長」
  • 小説
    「宿敵」
  • 小説
    「海将〜若き日の小西行長」
観光情報
  • 宇土城跡(宇土市古城町)
物語の概要

宇土城跡 

  1. 小西行長(こにしゆきなが)(1555〜1600)
  2. 堺の豪商小西隆佐の次男に生まれる。1579年秀吉に仕え、高山右近の薦めでキリシタンとなった。1588年益城・宇土・八代・天草24万石の領主となり今日の宇土町並みの基盤を作った。肥後半国の領主加藤清正とは事ごとに張り合い、石田三成を盟主とする文治派に属し、熱烈なキリシタンとして寮内に教会を建て領民のキリシタンへの転宗を奨励した。上津浦に南蛮寺を創設し西人(外国人)を招いて住職にするなどして広く全島にキリスト教の色彩を濃厚にした。わずか12年間の天草領有時代に活版印刷機を輸入し平家物語などの書籍(いわゆる天草版)を発行せしめ徹底的にキリシタン教育を施したことは島民の信仰を根強いものとした。
  3. 1598年、京都六条河原で処刑された。42歳であった。
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  • 天草ロザリオ館(天草市天草町大江)
  • サンタマリア館(天草市有明町)
  • 天草コレジヨ館(天草市河浦町白木河内)

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細川忠利
伝記
細川忠利
熊本
関連する物語
  • 小説
    「宮本無些細」
  • 小説
    「阿部一族」
  • うんちくの旅
    第一巻
    12藩主が結ぶ三都市交流.
観光情報
  • 水前寺成就園
    (熊本市水前寺公園)
  • 泰勝寺跡(熊本市黒髪)
  • 妙解寺跡(みょうげじあと)(熊本市横手)
物語の概要

熊本城

  1. 細川忠利(ほそかわただとし)(1586〜1641)
  2. 戦国時代の細川ガラシャ(玉子)の三男で、細川家三代当主にして肥後初代藩主。清正公の死後、忠利公が入国するまで藩の失策などで農村は荒廃。そこで忠利公は直ちに領民の不安解消と、藩政の立て直しに取りかかった。
  3. 忠利公は大名達が不満を持っていた参勤交代の改革を幕府に提案、実現させるなど徳川家光政権を影から支えた。忠利公がなくなるとすぐに嫡子光尚の家督相続を認め、易後細川氏は1869年の版籍奉還まで三百数十年にわたって肥後熊本の藩主を務めた。
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  • 細川刑部邸

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橋本勘五郎
伝記
橋本勘五郎
熊本
関連する物語
  • 小説
    「肥後の石工」
  • うんちくの旅
    第一巻
    19.石の文化(石橋)・・・かけがえのない歴史遺産
観光情報
  • 橋本勘五郎生家
    (八代市東陽町)
  • 通潤橋
  • 明八橋、明十橋(熊本市)
  • 竜門橋(菊池市)
物語の概要

石匠館

  1. 橋本勘五郎(はしもとかんごろう)
  2. 1822年種山村(現在の八代市東陽町)に喜八の三男として生まれた。血縁者はほとんど石工で、県内はもとより東京にも多くの名橋を架けている。1855年通潤橋や御船川眼鏡橋の架設に携わり、その技術が認められ、明治6年には明治政府から招かれ、東京の万世橋や浅草橋などの石橋を架けている。
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  • 石匠館
  • 東陽交流センター せせらぎ

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小泉八雲
伝記
小泉八雲
熊本
関連する物語
  • 小説
    「東の国から」
  • 小説
    「心」
  • うんちくの旅
    第一巻
    38.南九州文学の旅
    44.文学作品の舞台を名作を携えて
観光情報
  • 小泉八雲熊本旧居
    (熊本市安政町)
物語の概要

小泉八雲熊本旧居(熊本市安政町)

  1. 小泉八雲(こいずみやくも)ラフカディオ・ハーン(1850〜1904)
  2. 1850年6月27日ギリシャで生まれた。16歳の頃左目を失明し、家庭的な不幸と相まって彼の性格をいっそう孤独にし、非社会的にしたが、19歳の時渡米し、貧困生活の中に苦学を続け、ついに新聞記者として認められるに至った。1890年松江で英語教師になり、1891年小泉節子と結婚、1895年に小泉八雲と改名した。1891年11月旧制五高の教師として熊本に赴任し、校長の嘉納治五郎や教授の秋月胤永らの好遇を受け、熊本の風土と純真素朴な五高生に親近感を抱いた。その後多くの名作を発表し、名作「東の国から」と「心」の二編は熊本における大きな収穫であった。その後東大・早大で教鞭を執っていたが、1904年9月26日に54歳で急逝した。
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  • 熊本城
  • 水前寺成趣園

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夏目漱石
伝記
夏目漱石
熊本
関連する物語
  • 小説
    「草枕」
  • 小説
    「二百十日」
  • 小説
    「坊っちゃん」
  • 小説
    「三四郎」
  • 小説
    「吾輩は猫である」
  • うんちくの旅
    第一巻
    38.南九州文学の旅
    44.文学作品の舞台を名作を携えて
観光情報
  • 夏目漱石内坪井旧居
    (熊本市内坪井町) 
  • 前田家別邸跡
    (玉名市天水町小天)
物語の概要

夏目漱石内坪井旧居

  1. 夏目漱石(なつめそうせき)(1867〜1916)
  2. 1867年2月9日江戸の牛込馬場下で数代前から続く町方名主、夏目小兵衛直克つの末子として生まれる。生後まもなく里子に出されるが、不憫に思った姉が連れ戻した。その後養子に出されるが、養父母の離婚により生家に戻る。1884年、東京大学予備門予科に入学。同級生として漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる正岡子規と出会う。1890年帝国大学の英文科に入学。このころから神経衰弱に陥り始めていたとも言われる。
  3. 熊本に来たのは1896年4月から1900年7月までの約4年間、五高で教鞭をとっていた。漱石はこの4年間で6回も住まいを移している。第一の住まいで鏡子夫人を迎え、結婚式を挙げた。漱石夫妻がもっとも気に入っていたのが5番目の内坪井の家で、ここで長女筆子が生まれた。すでに俳人として知られた漱石は、教鞭を執る傍ら旅にも翌出かけ、小天や阿蘇への旅は、文学作品「草枕」「二百十日」のもととなった。
関連観光情報 〜物語には直接出てきませんが、地域やテーマの関連する観光情報です。〜
  • 熊本近代文学館(熊本市出水)
  • 草枕温泉
  • 草枕交流館
  • 二百十日の宿
  • 五高記念館
  • 熊本近代文学館

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徳富蘇峰
伝記
徳富蘇峰
熊本
関連する物語
観光情報
  • 徳富記念館(熊本市大江)
  • 蘇峰記念館(水俣市陣内)
  • 徳富蘇峰・蘆花生家
    (水俣市浜町)
  • 蘇峰生誕の家記念館
    (上益城郡益城町上陳)
物語の概要

徳富記念館

  1. 徳富蘇峰(とくとみそほう)(1863〜1957)
  2. 葦北郡水俣で代々総庄屋を務めていた徳富家の長男として1863年3月15日に生まれた。父一敬は、横井小楠の門弟。熊本洋学校を経て、京都の同志社英学校で西洋の学問を学んだ。また郷里で起こった西南の役は、新聞への関心を高め、特に社説に目が動き、面白い論説等はノートに写し、新聞記者への志を立てた。今旧邸に咲き誇るカタルパの花は、恩師新島襄と蘇峰の師弟愛のシンボルとなっている。1882年帰郷して大江義塾を開校し、塾長となって少年たちを教育した。1886年、心血を絞って書いた「将来の日本」の好評を契機に上京、民友社を設立し、「国民の友」を発行し、新しい文学のために尽力した。1929年国民新聞社長を引退した後毎日新聞の社賓に迎えられ、評論や随筆を発表している。1945年8月の終戦まで83歳の記者としてペンをふるった。1918年56歳から近世日本国民師の執筆に係り、新聞に連載し、1952年90歳までの35年の歳月をかけ約500冊もの本を書いている。1957年95歳で生涯の幕を閉じた。
関連観光情報 〜物語には直接出てきませんが、地域やテーマの関連する観光情報です。〜

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徳冨蘆花
伝記
徳冨蘆花
熊本
関連する物語
  • 小説
    「不如帰」
  • うんちくの旅
    第一巻
    44.文学作品の舞台を名作を携えて
    第二巻
    13.明治の群像 その[1]
観光情報
  • 徳富記念館(熊本市大江)
  • 徳富蘇峰・蘆花生家
    (水俣市浜町)
  • 徳冨蘆花記念園
物語の概要

徳富蘇峰・蘆花生家 

  1. 徳富蘆花(とくとみろか)(1868〜1927)
  2. 葦北郡水俣で代々総庄屋を務めていた徳富家の次男として1868年12月8日に生まれた。父一敬は、横井小楠の門弟。蘆花は身体が虚弱で弱虫、泣き虫、怒り虫などと言われたが、学業成績は極めて優秀だった。1882年から蘇峰の大江義塾に学んでいるうちに受洗し、1886年同志社に再入学、同志社文学雑誌に発表した「孤墳の夕」は構内にその文名を高めた。やがて郷里に帰り熊本英学校で1年余、英語教師をしたが、1899年に上京し、蘇峰の経営する民友社に入社し、文筆生活に入った。一大出世作「不如帰」を出版、やがて蘇峰から独立、1906年ロシアへ行き、トルストイを訪ね、その感化を受け武蔵野の一角に住み、田園生活を始めた。その後数々の名作を残し1927年60歳で永眠した。自然を愛し、ヒューマニズムの精神に生きた偉大な作家、小説家である。
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  • 蘇峰記念館(水俣市陣内)
  • 蘇峰生誕の家記念館(上益城郡益城町上陳)

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ハンナ・リデル、エダ・ライト
伝記
ハンナ・リデル、エダ・ライト
熊本
関連する物語
  • 「愛と奉仕の日々ーリデル・ライトの足跡ー」
観光情報
  • リデル、ライト両女史記念館(熊本市黒髪)
物語の概要

リデル、ライト両女史記念館 

  1. ハンナ・リデル、エダ・ライト
  2. 1893年イギリス国教会の伝道師として熊本に赴任し、ハンセン病患者のために生涯を捧げたハンナ・リデルとその姪エダ・ライト。当時伝染する不治の病と誤解され、迫害を受けていたハンセン病患者のために、リデル女史が、英国、日本の教会、財政会に寄附を募り、創設した病院が回春病院。エダ女史は1896年に来日。リデル女史の後継者としてハンセン病患者のために尽くした。昔のハンセン病患者は世間から圧迫され、嫌悪され、亡くなったときでも遺骨を家庭に入れることは許されなかった。「私が死んだら遺骨はどうなるのだろう」と患者の声は悲痛だった。リデルはこれらの遺骨を葬るべき墓地を院内に設立しようとしたが、許可が下りずそれに変わる納骨堂が造られた。両女史の遺骨もまたここに納められている。
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北里柴三郎
伝記
北里柴三郎
熊本
関連する物語
観光情報
  • 北里柴三郎記念館
    (阿蘇郡小国町北里)
物語の概要

北里柴三郎記念館

  1. 北里柴三郎(きたざとしばさぶろう)(1852〜1931)
  2. 世界の細菌学者の第一人者。阿蘇郡小国町北里で生まれた。北里家は代々細川藩に仕えた総庄屋であった。15歳の時熊本医学校、23歳で東京医学校(東大医学部の前身)に入学。1883年に卒業した後は、内務省衛生局に入り、細菌の研究を始めた。1885年ドイツに留学し、ローベルト・コッホに師事した。柴三郎はドイツ語の上手なことで師を驚かし、勤勉熱誠、不撓不屈の精神がコッホに認められ助手に抜擢された。その後世界の学者が不可能としていた破傷風菌の純粋培養に成功、引き続いて免疫血清療法に成功と治療医学に一新紀元を画した。1931年6月13日脳溢血で永遠の眠りについた。
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  • 湧蓋山麓温泉郷、杖立温泉、奴留湯温泉
  • 木魂館
  • 坂本善三美術館

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宮崎滔天
伝記
宮崎滔天
熊本
関連する物語
  • 小説
    「三十三年の夢」
  • 伝記
    「評伝 宮崎滔天」
  • うんちくの旅
    第一巻
    45.”恋の華”柳原白蓮と”炭坑王”伊藤伝右衛門
    48.偉人の生家(跡)で思うこと(大分・熊本編)
観光情報
  • 宮崎兄弟の生家
    (荒尾市荒尾)
物語の概要

宮崎滔天資料館

  1. 宮崎滔天(みやざきとうてん)(1870〜1922)
  2. 1860年12月6日宮崎長兵衛、妻佐喜の11番目の子として玉名郡荒尾村(現荒尾市)に生まれた。
  3. 蘇峰の大江義塾に入ったが満足せず、上京してキリスト教の熱心な信者となる。1897年初めて横浜で中国革命の父孫文と会見し、二人は肝胆相照らし、その同志的友情は終生変わらなかった。滔天は中国に渡り革命運動に挺身したが広東省恵州での義兵に敗れて帰国、桃中軒雲右衛門の弟子となり中国革命の必要性を説いて回った。孫文が再び日本に亡命したときも、精神的物質的援助を続け、孫文の革命運動を助けた。1922年12月52歳でその生涯を閉じた。孫文とともに自分の妻子のことも忘れ、貧困にもめげず、中国革命に心血を傾け尽くした。
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  • 旧万田坑
  • 岩本橋

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犬童球渓
伝記
犬童球渓
熊本
関連する物語

観光情報
  • 犬童球渓顕彰音楽祭
物語の概要

人吉城跡

  1. 犬童球渓(いんどうきゅうけい)(1879〜1943)
  2. 1879年人吉市の農家の次男として生まれ、17歳の時小学校の代用教員となった。教育に生き甲斐を見いだした球渓は熊本師範学校に進学し日夜勉学に励んだ。特に音楽は抜群で「我が校のベートーベン」と言われるほどだった。小学校に壊れたベビーオルガンがあったのを修繕し、子どもたちに文部省唱歌を教えた。当時はオルガンを弾ける先生が非常に珍しかったので児童たちは我を忘れて耳を傾けたという。その後東京音楽学校甲種師範科に進学し、苦学の末卒業。28歳の時あの不朽の名作「旅愁」「故郷の廃家」を作詞。30歳の時熊本の第一高女に、大正7年故郷人吉高女に転じ、10年に退職。一生を音楽教育に捧げ、その間に三百余の作詞と数多くの作曲をしている。
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  • 人吉城
  • 球磨川下り、ラフティング
  • 人吉温泉

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坂本善三
伝記
坂本善三
熊本
関連する物語

観光情報
  • 坂本善三美術館
    (阿蘇郡小国町黒渕)
物語の概要

坂本善三美術館

  1. 坂本善三(さかもとぜんぞう)(1911〜1987)
  2. 1911年3月15日北小国村(現阿蘇郡小国町)に生まれる。坂本善三は「グレーの画家」「東洋の寡黙」と称される抽象画家として知られている。故郷の風土や自然に根ざした作品は、日本独特の抽象であると世界でも高い評価を受けた。、亡くなるまで熊本で制作を続け、熊本の美術界に大きな足跡を残した。
  3. 坂本善三美術館は本館、展示棟ともに総畳敷き。
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  • 木魂館
  • 北里柴三郎記念館

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ガルニエ神父
伝記
ガルニエ神父
熊本
関連する物語
  • 「五足の靴」
観光情報
物語の概要

ガルニエ神父像

  1. フランス人宣教師。
  2. 1892(明治25)年に大江とア津教会の主任司祭となる。昭和8年に大江天主堂を私財を投じて建立した。「パーテルさん」と呼ばれ親しまれた。
  3. 「五足の靴」の最大の目的はガルニエ神父に会うことだったという。
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  • 下田温泉
  • ロザリオ館
  • 観光ボランティアガイド「天草宝島案内人の会」

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鈴木重成
伝記
鈴木重成
熊本
関連する物語
  • 鈴木正三
  • 小説
    「雲さわぐ 天草の代官・
    鈴木重成」
観光情報
  • 鈴木神社(本渡地区)
物語の概要

鈴木神社

  1. 江戸時代初期の幕臣・天草代官。鈴木重次の三男。禅僧で仮名草子作者の鈴木正三は兄。
  2. 島原の乱では追討使・松平信綱に従って戦地入りし、原城攻撃に参加。一番乗りの武功を立てた。戦後の寛永18年(1641年)、天領となった天草の代官となり、疲弊していたこの地への入植を進める一方、キリシタン統制を行った。
  3. 過重な年貢の減免を実現するため、訴状を残し切腹し、減免をついに実現したといわれている。
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  • 富岡城跡
  • 祗園橋
  • 殉教公園
  • 天草キリシタン館
  • 松島温泉

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剣豪・丸目蔵人佐
伝記
剣豪・丸目蔵人佐
熊本
関連する物語
  • 小説
    「剣豪 丸目蔵人佐」
    渋谷敦著(1991年出版、2007年出版)
  • 小説
    「それからの武蔵」
観光情報
  • 「丸目蔵人佐の墓」
    町指定文化財
物語の概要

丸目蔵人佐の墓 

  1. 剣豪「丸目蔵人佐徹斎」は、1540(天文9)年に相良藩に仕えていた父の勤務地である八代郡で生まれ、17歳で故郷を離れ、当時剣聖と仰がれた京都の上泉伊勢守について新陰流を研鑽し、伊勢守門下四天王の一人と目されるに至った。
  2. 蔵人佐は、新陰流崩しのタイ捨流を創案した。
  3. 晩年は「徹斎」と号し、錦町一武切原野に相良氏から土地を賜り、土地を開いて晴耕雨読に明け暮れ、1629(寛永6)年に90歳で亡くなった。
  4. 死後78年経ってから近くの農民が、蔵人佐の山から水を引いて稲を作れるようにした功績をたたえ石碑を建てた。
  5. 小山勝清著の中で、宮本武蔵が一度だけ負けたことがあり、その相手が「丸目蔵人」であるという話が出てくる。あくまでフィクションであるが、それだけ剣に優れた人物であったことが伺える。
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  • 丸目「剣豪とフルーツの里」をキャッチフレーズとして、道の駅 錦には、「丸目蔵人銅像」と「少年剣士銅像」が建てられている。
  • 5月下旬または6月上旬に、県内、鹿児島、宮崎等から約500人の少年剣士が集い”剣豪「丸目蔵人」顕彰少年剣道大会”が開催される。

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団琢磨
伝記
団琢磨
熊本
関連する物語
  • 男爵「団琢磨伝」
    ゆまに書房(復刻版)
  • 日経ビジネス人文庫
    20世紀 日本の経済人
    (日本経済新聞社)
観光情報
  • 荒尾市)国重要文化財・史跡「万田坑跡」
  • 大牟田市)国指定重要文化財・史跡「宮原坑跡」、宮浦石炭記念公園、旧三井港倶楽部、三池港、大牟田市石炭産業科学館
  • ガイドの連絡先:大牟田・荒尾炭鉱のまちファン倶楽部
物語の概要

旧三井港倶楽部

  1. 団琢磨(だんたくま)1858(安政5)年8月、筑前福岡(現在の福岡市)生まれ。1871(明治4)年、岩倉使節団で渡米し、マサチューセッツ工科大学で鉱山学を学ぶ。1878(明治11)年帰国。
  2. 帰国後、大阪専門学校、東京帝国大学で助教授となり、工学、天文学などを教える。
  3. 1884(明治17)工部省に移り、鉱山局次席、三井鉱山局技師となる。1888(明治21)年官営三池鉱山が三井組に売却された後も三井に移り、三井三池炭鉱社の事務局長に就任。三井三池炭鉱の排水を克服するため、英国からデーヴィポンプを導入し成功を収める。1893(明治26)年三井鉱山合資会社専務理事、1909(明治42)年三井鉱山会長。1908(明治41)年、三池港の築港、鉄道の敷設の大工事を行い、石炭の運搬経路を確立させ、炭鉱経営を三井財閥の主力事業とし、日本の近代化、工業化に大きく貢献した。
  4. 1932(昭和7)年3月、三井本館前で右翼団体に狙撃され暗殺された。
  5. 作曲家の故団伊玖磨は琢磨の孫(長男の息子)にあたる。
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  • 大牟田市)三池集治館跡、旧三川変電所跡

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与謝野鉄幹・晶子
伝記
与謝野鉄幹・晶子
熊本
関連する物語
  • 詩歌
    「みだれ髪」
  • 詩歌
    「明星」
  • うんちくの旅
    第一巻
    47.歌のふるさと
観光情報
  • 東林寺(歌碑)
  • 夫婦(めおと)えびす神社(歌碑)
  • 鍋屋本館(歌碑)
  • 阿蘇温泉旅館 蘇山郷
    (与謝野鉄幹・晶子が昭和7年に宿泊した)
物語の概要

与謝野鉄幹・晶子碑

  1. 与謝野鉄幹:1873(明治6)年2月26日〜1935(昭和10年)3月26日与謝野晶子:1878(明治11)年12月7日〜1942(昭和17)年5月29日
  2. 晶子は10代半ばから短歌を作り始め、20歳頃に鉄幹の歌を知り感銘を受け、1900年鉄幹が創刊した「明星」に歌を発表。これが最初の出会いとなった。その後、晶子は「みだれ髪」を刊行。その2ヶ月後、妻と別れた鉄幹と結婚。
  3. 1932(昭和7)年8月12日に、与謝野晶子、鉄幹夫妻が九州旅行中に人吉を訪れくま川で舟遊びや温泉などを楽しんだ。この間に晶子は17首、鉄幹は28首の歌を残した。わずか1泊でこれほど多くの歌を残したのは珍しい。
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  • 人吉・観光案内人協会

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三浦梅園
伝記
三浦梅園
大分
関連する物語
  • 歴史・伝記
    「帆足萬里」
  • 歴史・伝記
    「広瀬淡窓」
  • うんちくの旅
    第一巻
    48.偉人の生家(跡)で思うこと(大分・熊本編)
    第二巻
    14.明治の群像 その[2]
観光情報
  • 三浦梅園旧宅
  • 三浦梅園資料館
物語の概要

三浦梅園旧宅(東部地方)

  1. 帆足万里、広瀬淡窓と並ぶ豊後の三賢人と呼ばれている。条理学と言われる独自の学問体系を築いた『玄語』が有名。
  2. 梅園は三度旅をした以外は、故郷の大分県国東半島を離れることはなく、医業の傍ら黙々と思考を続け、その坦々とした生涯を終えた。
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  • 梅園の里
  • 弥生のムラ
  • あかねの里
  • 文殊仙寺
  • 両子寺

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野上弥生子
伝記
野上弥生子
大分
関連する物語
  • 映画
    「利休」
  • 映画
    「人間」
観光情報
  • 野上弥生子文学記念館
物語の概要

野上弥生子文学記念館(中部地方)

  1. 明治18年、酒造業を営む小手川角三郎とマサの長女として生まれる。学校教育のほか、国文・漢文の古典と英語の個人授業を受ける。14歳で上京し、明治女学校入学。卒業後、同郷の野上豊一郎と結婚。文学的環境の中、「秀吉と利休」「迷路」など数々の作品を発表している。
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  • ボランティアあらかしの会(無料)
  • NPO法人うすきかたりべの会(有料) 
  • NPO法人うすき竹宵(有料)
  • うすき町並みガイドの会(有料)

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広瀬淡窓
伝記
広瀬淡窓
大分
関連する物語
  • 歴史・伝記
    「帆足萬里」
  • 歴史・伝記
    「三浦梅園」
  • うんちくの旅
    第一巻
    48.偉人の生家(跡)で思うこと(大分・熊本編)
    第二巻
    14.明治の群像 その[2]
    25.九州の小京都めぐり その[1](北部九州編)
観光情報
  • 咸宜園
  • 桂林荘公園
  • 広瀬資料館
  • 長福寺
  • 長生園
物語の概要

咸宜園

  1. 日田・長福寺学寮で私塾咸宜園を創設し、全国から向学の想いに燃ゆる青年達が集まった。その数多い時で180名、淡窓一代の入門者総数は4,610名を数えた。75歳で没するまでの50年間大村益次郎や高野長英など優秀な人材を多数輩出した。
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  • 日田祇園
  • 豆田の町並み
  • 日田温泉郷
  • ふれあいガイド(有料)

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ペトロ岐部カスイ神父
伝記
ペトロ岐部カスイ神父
大分
関連する物語
  • 小説
    「銃と十字架」
  • 小説
    「王国への道」
  • うんちくの旅
    第二巻
    29.九州キリシタン紀行(1)
観光情報
  • ペトロカスイ岐部神父記念公園、公園・教会
物語の概要

ペトロ岐部 

  1. 戦国時代末期、豊臣秀吉が「伴天連追放令」を発した1587(天正15)年に「ペトロ岐部」は生まれた。
  2. ローマのイエズス会に提出された彼の身上書きによれば「私はペトロ岐部、父はロマノ岐部、母はマリア波多の子、当年33歳、生まれは豊後の国・浦辺」とある。北浦辺と呼ばれていた現在の国見町で彼は生まれ、33歳で神父になろうとローマに渡った。
  3. ローマで神父に叙階された彼は、祖国日本が厳しいキリスト教の禁教により、信者の摘発・投獄・拷問が行われていることを知り、道中苦難の末、9年の歳月をかけて、薩摩の坊ノ津に難破・上陸し帰国している。    長崎に潜伏後、東北に移動しつつ迫害下のキリシタンに福音を授け、励ましていたが、仙台領で密告により捕らえられ、江戸送りにされた。信者の動向の詮議を受け、また、棄教を勧める拷問にも耐え、最後は、自分の信仰を貫き通して殉教した。神父52歳の生涯だった。
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  • 「国見ふるさと展示館」の1階がペトロ岐部カスイ神父資料館
  • 梅園の里
  • 弥生のムラ
  • あかねの里
  • 文殊仙寺
  • 両子寺

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大友宗麟
伝記
大友宗麟
大分
関連する物語
  • 小説
    「大友宗麟」外山幹夫著
  • 小説
    「王の挽歌」遠藤周作
  • 小説
    「火炎城」白石一郎
  • 映画
    「国東物語」
  • TVドラマ
    「大友宗麟〜心の王国を求めて〜戦国の世において平和な国づくりを目指した武将宗麟の波乱の人生」NHK正月時代劇(2004)
  • うんちくの旅
    第二巻
    29.九州キリシタン紀行(1)
    30.九州キリシタン紀行(2)
観光情報
  • 大友宗麟像
    (大分駅前、春日浦他)
物語の概要

大友宗麟 

  1. 大友 義鎮(おおとも よししげ)法号宗麟。
  2. キリシタン大名としても有名だが、一時は九州6ヶ国を平定し、九州最強の大名とまで称されたことがある。しかしキリシタン王国建設間近で島津義久に敗れ、晩年には豊臣秀吉の家臣に甘んじて豊後1国を維持するのがやっとというほどまでに衰退した。
  3. 大分市には、現在でも大友宗麟を偲ぶ史跡が残り、その多くは歴史の重みを感じさせる。
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  • 大友館跡碑(大分市上野ヶ丘西)

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久留島武彦
伝記
久留島武彦
大分
関連する物語
  • ドキュメンタリー
    「アンデルセンと呼ばれた日本人・久留島武彦 童話にかけた人生」
  • うんちくの旅
    第二巻
    22.九州の民話・伝説を旅する その[2]
観光情報
  • 久留島記念館
物語の概要

久留島記念館

  1. 玖珠町出身の児童文学者(1874ー1960)。大分中学在学中に英語教師を務めていた米国人牧師の影響を受け、子どもたちにお話を語る必要性を悟る。その後終生子どもたちのため全国を行脚して常に子どもたちの傍らでお話をする活動に勤める。1924年にデンマークで開催されたボーイスカウト世界大会参加のために赴き、アンデルセンの生家に立ち寄る。アンデルセンの生家が荒れ放題であったため落胆した。たまたま通り掛かった地元の新聞記者にアンデルセンの功績を訴えた。武彦の訴えが新聞に掲載されデンマークでもアンデルセンを見直すきっかけとなった。その後デンマークでは久留島武彦を「日本のアンデルセン」と呼ぶようになった。
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  • わらべの館
  • 語り部ひこわの会

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青柳鯉市
伝記
青柳鯉市
大分
関連する物語
  • 明治二年日出藩御家中御人帳
  • うんちくの旅
    第三巻
    33.町歩きが楽しい、鏝絵を探して
観光情報
  • 日出町内に分布するこて絵
物語の概要

こて絵

  1. 日出のこて絵の始祖といわれる青柳鯉市は、1839(天保10)年、日出藩普請方左官・脇儀市の五男として生まれ、のちに青柳源右衛門の養子となった。
  2. 父・儀市より左官業を学び、のちに江戸へ出て熱心に修行に励んだ。この修行中、こて絵の始祖・入江長八に出会い、こて絵の技術を習得したといわれている。鯉市は21歳の若さで日出藩お抱えの左官として仕えた。
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田能村竹田
伝記
田能村竹田
大分
関連する物語
  • 「竹田荘泡茶訣」
    田能村竹田著
  • うんちくの旅
    第一巻
    48.偉人の生家(跡)で思うこと(大分・熊本編)
    第三巻
    32.「雪舟」九州での10年を追う
観光情報
  • 旧竹田荘
  • 田能村竹田 石碑
物語の概要

田能村竹田(たのむら ちくでん)

  1. 江戸時代後期の文人画家。1777年7月14日(安永6年6月10日)〜1835年10月20日(天保6年8月29日)
  2. 豊後国(大分県)竹田村の岡藩々医碩庵の次男として生まれる。
  3. 22歳のとき、藩校の教授となり、35歳(1813年)で職を辞してからは、自由人として詩書画を中心とする生活に入り、京・大阪・江戸の文人たちとひろく交流しながら、中国文人画の正統を学ぶことにつとめた。歳関三友双鶴図、暗香疎影図、松巒(しょうらん)古寺図は重要文化財である。
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  • 岡城跡
  • 滝廉太郎記念館
  • 竹田市観光協会ボランティアガイド委員会

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帆足萬里
伝記
帆足萬里
大分
関連する物語
観光情報
  • 帆足萬里墓
  • 西崦精舎跡
物語の概要

西崦精舎跡の記念碑(セイエンセイシャ)

  1. 帆足萬里は、三浦梅園、廣瀬淡窓とともに「豊後の三賢」に称された江戸時代後期の儒学者。教育者としても多くの子弟を育て、また政治家としても大いに手腕をふるった。
  2. 帆足萬里は、終生の師匠となる小浦の脇蘭室の下で学問の手ほどきを受けた。また大阪の中井竹山・中井履軒、京都の皆川淇園、筑前の亀井南溟など、名だたる学者にも学問の教えを受けながら、独学で学問を習得していった。
  3. 帆足萬里は27歳の若さにして日出藩よりその才能を認められ、藩の子弟の教育を任されるようになった。
  4. 1832(天保3)年、55歳となった帆足萬里は、日出藩十三代藩主木下俊敦の願いを受けて家老職に就き、3年間にわたり藩政の改革に尽力した。
  5. 1842(天保13)年、65歳となった帆足萬里は、一切の藩務から離れ、南端村目刈に隠居し、私塾「西崦精舎」を開き、学問の研究と子弟の教育に打ち込んだ。
  6. 1851(嘉永4)年秋、帆足萬里は病に伏せ、目刈から家老時代に過ごした二ノ丸の旧宅にもどるが、翌年の嘉永5年6月14日、75歳で永い眠りについた。萬里の墓は、日出藩十四代藩主木下俊方の命により、帆足家の菩提寺である龍泉寺西の小高い丘に、波静かな別府湾を見下ろすように暘谷城に向けて建てられている。
  7. 帆足萬里の代表的著書には、天文、物理から生物、人種・言語に及ぶ科学の体系書「窮理通」を始め、政治や社会体制を論じた政治書で、吉田松陰も目を通したといわれる「東潜夫論」などがある。
関連観光情報 〜物語には直接出てきませんが、地域やテーマの関連する観光情報です。〜
  • 日出城趾(暘谷城趾)

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脇 蘭室
伝記
脇 蘭室
大分
関連する物語
  • 党民流説
  • 辺備略
  • 鶴崎夜話
観光情報
  • 菊園跡記念碑
物語の概要

菊園(キクエン)跡の記念碑

  1. 脇蘭室は1764(明和元)年、幕府領であった速見郡小浦村で生まれた江戸時代後期の儒学者で、「豊後の三賢」として名高い三浦梅園の教えを、同じく「豊後の三賢」の1人に称された帆足萬里へと導いた。通称は儀一郎、愚山と号し、蘭や菊をこよなく愛したことから、蘭室・菊園とも号した。
  2. 次第に脇蘭室の名声が各地に広まると、1798(寛政10)年、蘭室35歳の時に肥後藩に召し抱えられることとなった。熊本では30人の扶持を与えられ、藩校時習館の訓導に就いたが、藩保守派の反発にあい、翌年自ら辞職を願い出、小浦に帰った。しかし、再び肥後藩主から懇願されて肥後藩の飛び地領であった豊後の鶴崎に移り住み、子弟の教育に務めた。
  3. 1814(文化11)年、この地で病により51歳の若さでこの世を去り、鶴崎の寺司浜に葬られた。
関連観光情報 〜物語には直接出てきませんが、地域やテーマの関連する観光情報です。〜
  • 鶴崎城

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福沢諭吉
伝記
福沢諭吉
大分
関連する物語
  • 学問のすゝめ」福沢諭吉著
  • 小説
    「小説福沢諭吉」
  • 映画
    「福沢諭吉」
  • うんちくの旅
    第一巻
    48.偉人の生家(跡)で思うこと(大分・熊本編)
    第二巻
    14.明治の群像 その[2]
観光情報
  • 「福沢旧居」
    中津市留守居町
物語の概要

福沢旧居7 

  1. 1835年1月10日(天保5年12月12日)〜1901年(明治34年)2月3日
  2. 日本の武士、思想家、教育者、東京学士院初代会長、慶應義塾創立者として、明治の六大教育家に数えられる。
  3. 大坂堂島浜にあった豊前国中津藩の蔵屋敷で下級藩士福澤百助・於順の次男として生まれる。父の死により1歳の時に帰藩し大分県中津で過ごす。青年期は長崎、大阪に遊学し蘭学を学ぶ。その後、慶應義塾のもととなる塾を東京・築地の中津藩邸内に開く。また英学を独習し、3度欧米に渡る。
  4. 著書「学問のすゝめ」の冒頭に出てくる「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」の文章が有名。
関連観光情報 〜物語には直接出てきませんが、地域やテーマの関連する観光情報です。〜
  • 薦神社
  • 中津城
  • 自性寺大雅堂

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岩切章太郎
伝記
岩切章太郎
宮崎
関連する物語
  • 「無尽灯」岩切章太郎著
  • 「私の岩切さん」
    MRT宮崎放送ラジオ編成制作部 鉱脈社
  • うんちくの旅
    第三巻
    23.なつかしの”ハネムーンの地”を訪ねて
観光情報
  • こどものくに
  • 堀切峠(1936年からフェニックスを植樹)
  • サボテン公園
  • えびの高原
  • 都井岬
  • 岩切章太郎像
    (宮崎市役所前)
物語の概要

青島パームビーチ こどもの国と周辺 観覧車

  1. 岩切章太郎(いわきりしょうたろう)。明治26年現宮崎市中村町生まれ。
  2. 宮崎中学校(現大宮高校)時代は、首席で通し、望洋会(生徒会)を組織して熱弁をふるい、文章もうまく、柔道の選手や相撲の大関もつとめた。第一高等学校から東京大学政治科に学び、住友に3年の約束で入社するが、自分の意志を通し帰郷、1926(大正15)年に、4台のバスで宮崎市街自動車株式会社(宮崎交通の前身)を創立した。大淀駅(現南宮崎駅)と宮崎神宮間に市内バスの運行を始めた。
  3. 1931(昭和6)年に定期遊覧バスを開始。これが全国に名をはせる観光バスガイドの初登場であり、章太郎の宮崎県観光開発の第1歩となった。
  4. 1933(同8)年に祖国日向産業博覧会を開催し、宮崎県を全国に宣伝、1938(同13)年に宮崎商工会議所会頭となるや再び博覧会を計画、1940(同15)年に日向建国博覧会を開催した。また、1936(同11)年から、日南海岸にフェニックスを植栽し、3年後にこどものくにを開園、戦後も、橘公園、えびの高原と次々に大地に絵をかく夢を実現、新婚旅行のメッカ、宮崎ブームを作った。
関連観光情報 〜物語には直接出てきませんが、地域やテーマの関連する観光情報です。〜
  • 岩切章太郎賞(宮崎市は昭和63年から、岩切章太郎翁の功績とその観光哲学を永く歴史に継承することを目的に、毎年全国各地で、岩切イズムに共鳴し、実践している個人や団体、自治体に「岩切章太郎賞」を贈り顕彰している。)

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中村林太郎
伝記
中村林太郎
宮崎
関連する物語
  • フェニックス・ハネムーン
    (テーマソング)
  • うんちくの旅
    第三巻
    23.なつかしの”ハネムーンの地”を訪ねて
観光情報
  • 日南海岸
    (堀切峠、鵜戸神宮、など)
  • 橘公園(大淀川河畔のフェニックス並木)
物語の概要

堀切峠・日南海岸[4] 

  1. 中村林太郎(なかむらりんたろう)。福岡県生まれ。
  2. 1916(大正5)年、宮崎市に移住し大和町に中村園芸場を設立、とりわけフェニックスの栽培には、並々ならぬ努力を傾注した。
  3. 当時青島近くの畑で苗木の栽培をしており、日南海岸を見るたびに、異国情緒あふれる南国のイメージの並木を造りたいという強い思いを持っていた。
  4. ある日、ハワイに住む妹からのフェニックスの並木を写したクリスマスカードが送られ、これだと直感し、さっそく種子を取り寄せた。何度も失敗を重ねた5年後、ようやく芽を出した。
  5. 戦後、ハネムーンブームによって県の観光は飛躍し、彼が育てたフェニックスは、当時の岩切章太郎らの協力で日南海岸や橘公園に植栽され、南国日向の演出に大きな役割を果たした。
  6. さらに1966(昭和41)年には、郷土を代表する県の木に選ばれ、またテーマソングとも言える「フェニックス・ハネムーン」が大ヒットし、さらに知名度を高めた。
関連観光情報 〜物語には直接出てきませんが、地域やテーマの関連する観光情報です。〜
  • 青島(宮崎市)
  • 堀切峠(宮崎市)
  • シーガイア(宮崎市) 
  • サンメッセ日南(日南市)
  • 油津(日南市)
  • 県の木(昭和41年選定)

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小村 寿太郎
伝記
小村 寿太郎
宮崎
関連する物語
  • 「小村寿太郎」黒木勇吉著
  • 「ポーツマスの旗 外相・小村寿太郎」吉村昭著
  • 「日向文庫3 小村寿太郎」神戸雄一著
  • 「小村寿太郎とその時代」岡崎久彦著
  • うんちくの旅
    第一巻
    49.鹿児島・宮崎の偉人・先哲の旅(鹿児島・宮崎編)
    第二巻
    13.明治の群像 その[1]
    26.九州の小京都めぐり その[2](南九州編)
観光情報
  • 国際交流センター 小村記念館(日南市飫肥4-2-20-1)
  • 小村寿太郎生家
    (日南市飫肥4-8259-1)
  • 小村寿太郎墓所
  • 寿太郎まつり(小村侯を偲んで毎年8月に地区をあげてのまつりが行われる。)
  • 振徳堂
    (日南市飫肥10-2-1)
物語の概要

小村寿太郎生家 

  1. 小村寿太郎(こむらじゅたろう)。 安政2年生まれ。
  2. 7歳の時藩校振徳堂に入り勉学にはげみ、15歳でないと入寮できない振徳堂東寮入寮を14歳の時認められた。
  3. 秀才の寿太郎は15歳の時、藩の留学生として学友5人とともに長崎へ遊学し英語を学んだ。さらに、彼1人だけが東京大学の前身大学南校に進んだ。同校でも優秀で、1875(明治8)年、21歳のとき文部省第1回留学生の11人に選ばれ、米国・ハーバード大学で法律を学び優秀な成績で卒業した。
  4. 帰国後、大阪裁判所判事、外務省翻訳局長などを経て駐米・駐露特命全権公使、47歳で外務大臣となり、1902(明治35)年に日英同盟を締結した。
  5. 1904(明治37)年、日露戦争が起こった。わが国は戦争が長引くと不利になる状況のもと、アメリカの仲介でポーツマス講和会議に臨んだ。ロシア側の譲歩しない強い態度で交渉は大いに難航したが、寿太郎のすぐれた英知で終結をみた。
  6. その後、再び外務大臣となり、各国との条約改正をすすめ、不平等な関税自主権も回復させた。1911(明治44)年、外務大臣を辞任し、神奈川県葉山で永眠、57歳だった。
関連観光情報 〜物語には直接出てきませんが、地域やテーマの関連する観光情報です。〜
  • 飫肥伝統的建造物群・飫肥城址・油津(日南市)
  • 日南市観光ガイドボランティアの会

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西郷隆盛
伝記
西郷隆盛
鹿児島
関連する物語
  • NHK大河ドラマ
    「翔ぶが如く」
  • 海音寺潮五郎「西郷隆盛」
  • 渡部昇一『「南洲翁遺訓」を読む わが西郷隆盛論』
  • 江藤淳「南洲残影」
  • 堂門冬二
    「日本の青春 西郷隆盛と大久保利通の生涯」
  • うんちくの旅
    第一巻
    14.西南戦争(鹿児島〜宮崎〜熊本)
    49.鹿児島・宮崎の偉人・先哲の旅(鹿児島・宮崎編)
    第三巻
    9.秘められた西郷隆盛、城山への足どり
観光情報
  • 鶴丸城跡
  • 城山 
  • 西郷隆盛銅像
  • 西郷・大久保座禅石
  • 私学校跡
ほか
物語の概要

西郷隆盛 立像・2月

  1. 1827(文政10)年〜1877(明治10)年没
  2. 維新三傑の一人。維新当時の名は吉之助。
  3. 藩の下級役員であったが藩主斉彬に見出されて薩摩の代表的な人物に成長した。その斉彬も急死し、近衛家から頼まれて連れて帰った勤王僧月照を救うこともできず、共に錦江湾に身を投げたが西郷は生き返った。二度の島流しにあうが、維新倒幕の大詰めの局面で呼び戻されて、薩長同盟や戊辰戦争などで目ざましい働きをする。維新後新政府に呼び出されて参議となり、廃藩置県などにも最も重要な役割を果たすが、明治6年、遣韓使説論争で官を辞して鹿児島に帰った。明治10年、私学校生徒らに擁せられて西南戦争が起こり、南九州を転戦の末郷里の城山で死んだ。明治22年賊名を除かれ、正三位が贈られた。
関連観光情報 〜物語には直接出てきませんが、地域やテーマの関連する観光情報です。〜
  • 維新ふるさと館
  • 鹿児島県歴史資料センター「黎明館」
  • 西郷南洲顕彰館
  • 西郷松(龍郷町)
  • 西郷隆盛座像(和泊町)   ほか

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大久保利通
伝記
大久保利通
鹿児島
関連する物語
  • NHK大河ドラマ
    「翔ぶが如く」
  • 海音寺潮五郎
    「西郷と大久保」
  • 佐々木克「大久保利通」
  • 堂門冬二
    「日本の青春 西郷隆盛と大久保利通の生涯」
  • うんちくの旅
    第一巻
    49.鹿児島・宮崎の偉人・先哲の旅(鹿児島・宮崎編)
観光情報
  • 鶴丸城跡
  • 城山 
  • 大久保利通銅像
  • 西郷・大久保座禅石
  • 大久保利通生い立ちの地
など
物語の概要

西郷隆盛 立像・2月

  1. 1830(天保元)年〜1878(明治11)年没
  2. 旧名一蔵。西郷・木戸とともに維新三傑とされる。
  3. 幼くして西郷らの住む加治屋町に移って、青少年期を共に磨き合って育った。お由羅騒動で父とともに罰せられたが、斉彬が藩主になると許され、久光のもとでも、西郷が流罪になったこともあって同志の中心的役割を果した。新政府では西郷とともに参議。海外を視察して帰って内治優先を唱え、西郷の韓国使節派遣に反対して、西郷の辞職、やがて西南戦争へと発展した。それ以来参議兼内務卿(さんぎけんないむきょう)として新政府の中軸となり、日本の近代化に大きな役割を果した。しかし不平士族らの嫉視を買い、東京紀尾井坂で暴漢に襲われ47歳の生涯を閉じた。
関連観光情報 〜物語には直接出てきませんが、地域やテーマの関連する観光情報です。〜
  • 維新ふるさと館
  • 鹿児島県歴史資料センター「黎明館」など

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島津斉彬・久光
伝記
島津斉彬・久光
鹿児島
関連する物語
  • NHK大河ドラマ
    「翔ぶが如く」
  • 「島津斉彬 時代の先を歩み続けた幕末の名君」
  • うんちくの旅
    第二巻
    24.幕末・西洋文化ことはじめ
観光情報
  • 尚古集成館
  • 仙巌園
  • 照国神社
  • 鶴丸城跡
  • 城山
  • 島津斉彬公像
  • 島津久光公像
  • 玉里庭園
など
物語の概要

島津斉彬 

島津斉彬:
  1. 1809(文化6)年〜1858(安政5)年
  2. 28代当主。
  3. 曽祖父重豪に寵愛され、世界的な視野と進んだ学問見識をもっていた。重豪に似て藩の経済を脅かすのではないかという不安や異母弟久光擁立派の思惑から40歳を過ぎて藩主になったが、日本の最先端を行った集成館事業にも見るような進歩的な富国強兵策や、加えて幕府への強い政治力など、三百諸侯の中でも優れた藩主と言われた。治政わずか七年にして急逝したが、その志は西郷、大久保など斉彬の指導によって大成した志士たちによって達成された。日章旗を国旗に制定した功労者でもあり、照国神社に祀られている。
島津久光:
  1. 1817(文化14)年〜1887(明治20)年
  2. 28代当主斉彬の異母弟三郎。
  3. 明治政府の参議・左大臣。「お由羅騒動」と呼ばれる後継者争いなどがあったが、斉彬の後継者はその遺言によって久光の子の忠義となった。久光父子は斉彬の志を継いで幕政改革など国事に尽くした。
関連観光情報 〜物語には直接出てきませんが、地域やテーマの関連する観光情報です。〜
  • 維新ふるさと館
  • 鹿児島県歴史資料センター「黎明館」
  • 薩摩ガラス工芸など

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島津義弘
伝記
島津義弘
鹿児島
関連する物語
  • 小説
    「島津奔る」池宮彰一郎著
観光情報
  • 尚古集成館
  • 仙巌園
  • 島津義弘公像
    (日置市伊集院町駅前)
  • 徳重神社
  • 加治木のくも合戦
など
物語の概要

島津義弘公の銅像 

  1. 1535(天文4)年〜1619(元和5)年
  2. 17代当主。島津貴久の子。忠良・貴久や兄の義久らとともに三州統一に働いた優れた武将。
  3. 三州統一の後九州制覇に乗り出して、豊後の大友氏を追い詰めたが豊臣秀吉に敗れる。1597(慶長2)年の朝鮮の役でも大功を立てたが、関ヶ原の合戦では西軍の敗色が濃厚になった後、敵中突破して帰った。伊集院の妙円寺(今の徳重神社)に祀られ、妙円寺詣りが今も行われている。
関連観光情報 〜物語には直接出てきませんが、地域やテーマの関連する観光情報です。〜
  • 維新ふるさと館
  • 鹿児島県歴史資料センター「黎明館」など

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黒田清輝
伝記
黒田清輝
鹿児島
関連する物語

観光情報
  • 黒田清輝銅像
    (長島美術館)
など
物語の概要

黒田清輝 

  1. 1866(慶応2)年〜1924(大正13)年
  2. 明治17年に18歳でフランスに留学、はじめ法律を学んだが、間もなく洋画家のコランに師事し、外光派の画法を学び天才的な画才に磨きをかけた。「読書」ほかの作品がサロンに入選、明治26年帰国して東京美術学校教師、のち帝国美術院院長、貴族院議員等をつとめた。わが国に近代洋画を確立した巨匠で、「湖畔」など多くの名作を残し、晩年「美術研究所」(現国立文化財研究所)を設立した。
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  • 岩崎美術館(指宿市)
  • 松下美術館(霧島市福山町)
  • 鹿児島市立美術館
  • 長島美術館(鹿児島市)

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鑑真和上
伝記
鑑真和上
鹿児島
関連する物語
  • 井上靖「天平の甍」
  • 映画
    「天平の甍」
観光情報
  • 鑑真記念館
  • 坊津町歴史資料センター輝津館
など
物語の概要

鑑真記念館 

  1. 失明の果てに6回目の日本渡航を試みた唐僧鑑真は、753 (天平勝宝5)年、薩摩国阿多郡秋妻屋浦(現在の南さつま市坊津町秋目)に上陸した。
  2. 日本に仏教が伝来してこのかた、年を追って興隆に向かうとはいえ、僧尼の質となると問題が多く見られるようになり、そのため戒律を守り修業を積んだ真の僧尼を育成できるような制度の確立が要望されていた。そのような折、日本仏教界の招請に応じたのが唐の高僧鑑真だった。来日後、鑑真は戒壇院を築いて多くの僧尼に授戒し、日本仏教の刷新に力をつくしたが、763(天平宝字7)年,76歳をもって唐招提寺で入寂した。
関連観光情報 〜物語には直接出てきませんが、地域やテーマの関連する観光情報です。〜
  • 双剣石
  • 笠沙恵比寿
  • 丸木崎展望所 など

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東郷平八郎
伝記
東郷平八郎
鹿児島
関連する物語
  • 小説
    「東郷平八郎伝-日本海海戦の勝者」星亮一著
  • 映画
    「日本海海戦」
  • うんちくの旅
    第一巻
    49.鹿児島・宮崎の偉人・先哲の旅(鹿児島・宮崎編)
観光情報
  • 東郷平八郎誕生地
    (鹿児島中央校内)
  • 東郷平八郎銅像
    (鹿児島市多賀山公園内)
  • 鹿屋航空基地史料館
など
物語の概要

東郷平八郎 

  1. (生)1847(弘化4)年〜1934(昭和9)年
  2. 海軍大将、元帥。
  3. 1863(文久3)年の薩英戦争が初めての戦場で、戊辰の役にも従軍、維新ののち海軍に入って明治4年イギリスに留学、11年帰国。日清戦争では浪速艦長で黄海海戦に参加、日露戦争では連合艦隊司令長官として、日本海海戦でバルチック艦隊に完勝した。東洋のネルソンと呼ばれ、今も錦江湾に入る外国軍艦は多賀山の元帥銅像を表敬するのが例となっている。
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  • 維新ふるさと館
  • 鹿児島県歴史資料センター「黎明館」など

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松方正義
伝記
松方正義
鹿児島
関連する物語

観光情報
  • 松方正義公誕生地の碑
  • 薩摩藩英国留学生渡欧の地(いちき串木野市)
  • 尚古集成館
など
物語の概要

尚古集成館 

  1. 1835(天保6)年〜1924(大正13)年
  2. 幼名を金次郎といい、年少の頃両親を失い苦学。16歳の時から藩に仕え島津久光の側近として働いた。維新後は日田県知事として敏腕をふるい、のち大久保利通のもとで地租改正をやり遂げた。明治13年参議、翌年大蔵卿に任命されて紙幣整理を行い、健全財政への転換を図った。18年に初代伊藤内閣の大蔵大臣に就任。明治24年と29年の2回内閣総理大臣を務めた。特に日本勧業銀行の設立、金本位制の確立などの大事業を成しとげ、財政面で大きな業績を残した。その後も山県内閣の蔵相、大正6年には内大臣を務めるなど、明治維新後の富国強兵政策の推進により日本資本主義の基盤を固めた功労者。
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  • 維新ふるさと館
  • 鹿児島県歴史資料センター「黎明館」など

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森有礼
伝記
森有礼
鹿児島
関連する物語
  • テレビドラマ
    「獅子の時代」
  • 小説
    「秋霖譜-森有礼とその妻」森本貞子著
観光情報
  • 若き薩摩の群像
  • 森有礼誕生地跡記念碑
    (鹿児島市春日町)
  • 薩摩藩英国留学生渡欧の地(いちき串木野市)
  • 尚古集成館
など
物語の概要

森有礼 

  1. 1847(弘化4)年〜1889(明治22)年
  2. 慶応元年、寺島宗則や五代友厚らとともに薩藩留学生の一員として渡英。同3年長沢鼎らと渡米。明治元年帰国して明治政府に入り、武士の廃刀論を早くから唱えた。明治5年にアメリカ代理公使となり、以後、外務大輔、英国公使など外交面で活躍した。明治18年初代文部大臣になって、学制改革を行い、わが国近代学校体系の骨組を確立する。森の感覚は鋭く、時流に先んじて物事を判断するため敵も多く、寒中の2月11日、憲法発布の日の登庁前玄関で、暴漢西野文太に刺されてその翌日に死んだ。
関連観光情報 〜物語には直接出てきませんが、地域やテーマの関連する観光情報です。〜
  • 維新ふるさと館
  • 鹿児島県歴史資料センター「黎明館」など

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東郷青児
伝記
東郷青児
鹿児島
関連する物語
  • 小説
    「色ざんげ」宇野千代著
観光情報
  • 東郷青児銅像
    (長島美術館)
  • 鹿児島市立美術館
物語の概要

東郷青児 

  1. 1897(明治30)年〜1978(昭和53)年
  2. 本名鉄春。大正8年にヨーロッパへ渡って勉強し、キュービズム、シュールレアリズムなどの影響を受けた。親しみのある画風で大衆から専門家まで幅広い層の支持を得た。二科会会長、日本芸術院会員で、フランス政府から芸術文化勲章、没後文化功労賞等を受賞している。
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  • 鹿児島市観光ボランティア
  • 維新ふるさと館

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五代友厚
伝記
五代友厚
鹿児島
関連する物語
  • 歴史・伝記
    「薩摩藩英国留学生」
  • 小説
    「士魂商才—五代友厚」
    佐江衆一著
観光情報
  • 五代友厚銅像
    (鹿児島市泉町泉公園内)
  • 薩摩藩英国留学生渡欧の地
物語の概要

五代友厚 

  1. 1836年2月12日(天保6年12月26日)〜1885(明治18)年9月25日
  2. 江戸末期の武士・薩摩藩士、明治期の実業家。薩摩国鹿児島郡長田町城ヶ谷(鹿児島城下、現鹿児島市長田町)生まれ。薩摩藩士として長崎海軍伝習所に学ぶ。薩英戦争の時、天祐丸に乗船して、英国艦隊に拿捕される。その後、薩英戦争で西洋との格差を痛感し、技術取得のため欧州留学生派遣を提案して認められる。明治になり、語学力や知識を高く評価され外国事務局権判事、大阪判事を歴任し、明治2年に退官。明治18年、45歳で亡くなる。
関連観光情報 〜物語には直接出てきませんが、地域やテーマの関連する観光情報です。〜
  • 鹿児島市観光ボランティア

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僧 俊寛
伝記
僧 俊寛
鹿児島
関連する物語
  • 歌舞伎
    「平家女護島」
  • 小説
    「俊寛」菊池寛著
観光情報
  • 僧俊寛の墓(喜界島)
  • 俊寛像
    (鹿児島郡三島村硫黄島)
  • 俊寛堂
    (鹿児島郡三島村硫黄島)
物語の概要

僧俊寛の墓 

  1. 平安後期の僧。1177(治承元)年の鹿ケ谷の陰謀が失敗し鬼界ケ島(喜界島)に流された。やがておとずれた赦免の船にものれず、たったひとり、島に残されてしまう。1180(治承4)年生涯を閉じている。
  2. 俊寛の物語は近松門左衛門が歌舞伎「平家女護島(へいけにょごがしま)」として書き下ろし、その二段目「俊寛」だけが独立して上演されてきた。海外でもよく上演されている。
関連観光情報 〜物語には直接出てきませんが、地域やテーマの関連する観光情報です。〜
  • 百之台公園(喜界島)
  • 露天風呂・東温泉(鹿児島郡三島村硫黄島)
  • 有吉佐和子文学碑(鹿児島郡三島村硫黄島)など

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