歴 史
日向國風土記
宮崎
物語の概要
- ニニギノミコトが臼杵の郡の二上の峯に降り立った。しかし辺りは暗く何も見えず、立ち往生してしまう。そこにツチグモ族の大くわ・小くわと名乗る二人が現われ、「ミコトがお持ちになっている稲穂から籾を取り、四方に撒けば、きっと晴れ渡るでしょう。」と言う。ミコトがそれに従うと、みるみる空が明るくなり、日と月が輝き始めた。これにちなんで、この地を「高千穂」と名付け、後に「智鋪」と改められた。
関連観光情報 〜物語には直接出てきませんが、地域やテーマの関連する観光情報です。〜
- 国見ケ丘の展望所にはににぎの命の石像がある。
- 真名井の滝
- 道の駅「高千穂」
- 仙人の屏風岩
- 高千穂峡淡水魚水族館
- 高千穂町観光ガイド
歴 史
吉野ヶ里遺跡
佐賀
関連する物語
- 「魏志倭人伝」
- 「吉野ヶ里は邪馬台国なのか」(安本美典編著)
- 「吉野ヶ里遺跡と邪馬台国」(安本美典著)
- 「吉野ヶ里と邪馬台国」
(松本清張著) - うんちくの旅
第一巻
9.九州国立博物館と国営吉野ケ里歴史公園及び原の辻遺跡
観光情報
- 吉野ヶ里歴史公園
物語の概要
- 我が国最大の弥生時代遺跡で、国の特別史跡。有柄銅剣やガラス製管玉等の出土品は国の重要文化財に指定。1986年から現在に至るまで発掘調査が行われている。調査によると、弥生時代前期初頭に小規模な環壕集落が丘陵南端に形成され、前期には3ha、中期には推定20ha超、後期には40haを超す大規模な環壕集落へと発展している。集落内の社会階層・機能性による生活区分や、住居物・生活具の変化、集落構造の変化・発展も解明されていっている。弥生時代における「クニ」の中心的な集落の全貌や、弥生時代 600 年間の推移を解き明かす上で極めて貴重な史跡である。
関連観光情報 〜物語には直接出てきませんが、地域やテーマの関連する観光情報です。〜
- 水車の里・遊学館
歴 史
奴国
福岡
物語の概要
- 奴国(なこく、なのくに)は、1世紀〜3世紀前半にかけて「後漢書東夷伝」や「魏志倭人伝」に表記される古代の国。現在の博多付近であったと推測されている。
- 『後漢書』東夷伝によれば、建武中元二年(57年)に倭奴国の遣いが後漢の光武帝を訪問。光武帝により、倭奴国が冊封され金印を綬与されたという。江戸時代に農民が志賀島から金印を発見し、倭奴国が実在したことが証明された。
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- 水城跡
歴 史
邪馬台国伝説
九州全県
関連する物語
- 小説
「まぼろしの邪馬台国」
宮崎康平 - うんちくの旅
第一巻
8.九州国立博物館と装飾古墳
9.九州国立博物館と国営吉野ケ里歴史公園及び原の辻遺跡
第二巻
1.邪馬台国はどこ?その[1]
2.邪馬台国はどこ?その[2]
観光情報
- 九州の邪馬台国といわれる場所
【福岡県】
山門郡瀬高町、博多一帯、久留米、三井郡、北九州、京都郡、筑後川流域、甘木、田川、八女郡、太宰府
【佐賀県】
筑紫平野
【熊本県】
菊池郡山門、菊池郡、菊池川流域、阿蘇郡、人吉、山鹿、八代
【大分県】
宇佐、中津、別府湾岸、周防灘沖合い
【長崎県】
島原半島、東彼杵郡
【宮崎県】
西都原、西都市、日向地方、霧島山周辺
【鹿児島県】
薩摩、大隈、鹿児島
物語の概要
- 邪馬台国(やまたいこく、やまとこく、やまだいこく など)は、「魏志倭人伝」(中国の三国時代の歴史書『三国志』のうちの「魏書」東夷伝の倭人の条、以下「魏志倭人伝」とする)などに出てくる国。弥生時代の2〜3世紀に日本にあったと推定されている。女王が治めていたことから魏志倭人伝では女王国とも記されている。
- 九州説は畿内説における纏向遺跡のような有力な具体的候補地はまだなく、福岡県の太宰府天満宮、大分県の宇佐神宮、宮崎県の西都原古墳群など、九州各地に、それぞれ近辺を都とする諸説が乱立している。
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歴 史
鴻臚館
福岡
関連する物語
- 太宰府
- 万葉集
観光情報
- 鴻臚館跡展示館
物語の概要
- 外国からの賓客を迎える迎賓館を意味する中国古代風の呼称。奈良時代から平安初期にかけて、筑紫(福岡市)・難波(大阪)・平安京(京都)の3ヶ所に置かれた。
- そのうち筑紫の鴻臚館は、現在の福岡市平和台球場跡に1987年発見され、国指定史跡になっている。発見以来発掘調査が行われ、2021年度まで続く。
- 688年編纂の「日本書紀」に「新羅の使節を筑紫館(つくしのむろつみ)で饗応した」と記されている。筑紫の難波に大和政権の迎賓館が設置されており、これとの区別のため筑紫館(つくしのむろつみ)という名で記された。その後、平安時代には太宰鴻臚館の名称が用いられた。筑紫の鴻臚館は11世紀半ばに放火されるまで使用されていたと思われる。奈良時代は、唐や新羅からの外交使節の接待や、遣唐使・遣新羅使・留学生の宿泊施設として利用された。平安時代の遣唐使の廃止(894年)後は、唐商人の接待・外国人の検問や貿易などに用いられる外交の場にとなった。現在それらを示す多くの国際色豊かな遺物が大量に出土している。
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- 舞鶴公園
- 福岡市観光案内ボランティア
歴 史
隼人族呉人伝
宮崎
関連する物語
- 斉藤茂吉「のぼり路」
- 古事記
- 日本書紀
- 万葉集
- 魏志倭人伝
- 三国志
- 続日本紀
- 史記
- 甑島の民話「鵜の鳥」
- うんちくの旅
第一巻
10.古代ロマン(南九州編)
観光情報
- 西都原古墳(西都市)
- 東霧島神社(高崎町)
- 江田神社(宮崎市)
- 住吉神社(宮崎市)
- 天岩戸神社(高千穂町)
物語の概要
- 三世紀後半、大和地方で巨大な前方後円墳が造られるようになり、それが全国へと伝播していった。記紀の神話は南九州を中心に話しが構成されている。「記紀」では神武天皇の東遷により、国の中心が南九州から畿内に移ったとされる。一方、「三国志」には、三世紀の中頃の日本のどこかに邪馬台国があり、女王の卑弥呼が魏と接触していた事が書かれている。邪馬台国は南にある狗奴国との交戦中で、中国では魏と呉と蜀が長い間交戦中であった。三世紀の中頃、呉は東シナ海での派兵を積極的に行っていた。かつて九州の南には、隼人という清強な集団がいた。隼人の一部は畿内に移住して天皇に仕えていた。なぜ、日本の南の端の不毛の地に清強な集団が育ったのであろうか。隼人が呉の兵だとしたら?本書では、「記紀」と「魏志倭人伝」を読み解く事により、その謎を解明していく。
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- 磁餅焼(上甑島里村)
- 鬼岩階段(高崎町)
- 神石(高崎町)
- 御池(宮崎市)
- 天の岩屋戸(高千穂町) ほか
歴 史
大宰府
福岡
関連する物語
- 神話・民話
「飛梅伝説」 - 神話・民話
「菅公伝説」 - 小説
「巨門星・小説菅原道真青春譜」赤江瀑著 - 小説
「最澄と空海」梅原猛著 - うんちくの旅
第一巻
37.九州の万葉の故地を歩く
第二巻
16.ご利益めぐり・宝船満載 その[1](北部九州編)
第三巻
10.菅原道真、大宰府への道を追う
観光情報
- 太宰府天満宮
- 竈門神社
- 観世音寺
- 大宰府政庁跡
物語の概要
- 大宰府は九州地区の統治組織「大宰府」が置かれた事により栄え、太宰府天満宮などの史跡が数多くある。
- 太宰府天満宮には、学問の神として知られる菅原道真が祀られている。
- 菅原道真は幼少のころから学問・書・詩文など多くの業績を残した。また、遣唐使に任命されたが、唐の国情不安などを理由に遣唐使停止を建議し、唐に渡ることはなかった。政治家としても右大臣にまで昇任するが、突然大宰府に左遷され、2年後に亡くなる。門弟の味酒安行によって埋葬され、太宰府天満宮が創建された。
- 太宰府市内の竈門神社近くに竈門山寺跡がある。この近辺から8世紀初頭にあたる鴻臚館式軒丸・軒平瓦が出土しており、既に奈良時代に寺院があったことを示している。803年に遣唐使船に乗り唐へ向かおうとしていた最澄は、遣唐使船四隻の平安を祈って大宰府竈門山寺で薬師仏四躯を彫った。その寺の跡がこの場所であると考えられている。
- 他にも観世音寺には国宝の梵鐘があり、大宰府政庁跡は国指定特別史跡になるなど数多くの名所がある。
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- 九州国立博物館
- 古都大宰府保存協会
- 太宰府天満宮ガイドサービスの会
歴 史
防人
福岡 長崎
物語の概要
- 防人は古代中国や、日本の奈良時代から平安時代、律令制度下で行われた軍事制度。
- 中国、朝鮮半島より襲われる可能性に備え、約3千人の兵を筑紫、壱岐、対馬に常駐させた。任期は3年でその大半は筑紫地域、大宰府に配置された。その後、9世紀初めに防人制はなくなった。
- 防人たちは出発のとき、家族らと歌を詠みかわす伝統があった。「万葉集」に防人歌が多数残されている。
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- 太宰府天満宮
歴 史
鞠智城物語 防人たちの唄
熊本
物語の概要
- 西暦663年、唐と新羅に滅ぼされた百済の再興を支援するために、中大兄皇子は、藤原鎌足と共に、朝鮮半島に大群を送ったが、大敗を喫することになる。これが白村江の戦いである。
- その結果大陸からの脅威に晒された大和朝廷は、西日本地方に城塞を幾つも築いた。これが古代山城と呼ばれるもので、鞠智城もその一つである。その時これらの守りについたのが、防人と呼ばれる若き兵士達であった。彼らは東国地方の出身で、召集先の大阪から船に乗せられて対馬や九州に赴いたのだった。
- 船に揺られる防人の中に、愛する妻と子どもを故郷に残した者がいた。彼は鞠智城の警護に就いたが、城での生活は単調で、一刻も早く3年の任務を終えて故郷へ帰りたいと思っていた。しかし、ある日鵬飛(ほうひ)という百済からの来訪者と出会う。白村江の戦いに参戦し、祖国の最後を見届けた鵬飛は、祖国を失った悲しみをとうとうと語った。「国の滅びる悲しさ、妻や子どもを守れなかった無念さは、想像を絶する苦しみがある。」鵬飛の言葉は非常に重いものがあった。この時を境に、「退屈な任務から、家族と国を守る使命感」へと気持ちが変わっていった。
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- 烽火台跡(対馬、壱岐など)
- 水城跡
- 大野城跡
- 基肄城跡
- 太宰府
歴 史
平家物語
福岡
関連する物語
- 小説
「宮尾本平家物語」(宮尾登美子著) - テレビドラマ
「新・平家物語」 - 映画
「新・平家物語」 - うんちくの旅
第一巻
6.平家落人伝説
観光情報
- 壇ノ浦
- 大里・御所神社(柳の御所の跡、現在の社殿は明治35年、明治天皇が熊本大演習統監のため、この地に上陸されたときの休憩所を大里町が譲り受けて社殿とした。)
- 風呂の井戸(安徳天皇が湯浴みの水に使ったといわれている。)
- 下関市の赤間宮
- 先帝祭
物語の概要
- 源氏に追われて西国に落ちた平氏は、安徳天皇とともに一旦九州の太宰府に逃れたが、源氏方に追われ山鹿(芦屋町)を経て豊前の柳ヶ浦(門司)に落ち延びる。
- 源平の最後の戦い壇ノ浦合戦で敗れた平氏は、二位尼に抱かれて入水した安徳天皇とともに、一門の武将、公卿、女官たちは関門海峡の藻屑となり滅亡した。
- 門司の「大里」という地名は享保のころ「内裏」から改められた。
関連観光情報 〜物語には直接出てきませんが、地域やテーマの関連する観光情報です。〜
- 平家蟹(甲羅がいかにも無念そうな人の顔をしており平家の怨霊の生まれ変わりといわれている)
- しびきせ祭(小倉南区隠蓑に残る安徳天皇伝承から起こった祭り。その年生まれた赤ん坊に藁<しび>を振りかけて成長を祈る祭り。)
- 北九州市観光案内ボランティア
歴 史
うれしの茶
佐賀
関連する物語
- 歌謡・民謡
「嬉野茶摘唄」 - うんちくの旅
第二巻
47.九州 茶の道紀行
48.”日本茶インストラクター(茶ムリエ)がおすすめする”「九州の銘茶と名水を訪ねて」 その[1]
第三巻
37.煎茶道の祖「高遊外売茶翁」を訪ねて
観光情報
- お茶ちゃ村
- うれしの茶ミット
- 大茶樹
物語の概要
- 温泉とともに広く知られているうれしの茶。佐賀県は全国で初めてお茶が栽培されたところで嬉野が日本一歴史のある産地になる。うれしの茶は玉緑茶と呼ばれ葉が丸まっていて茶葉が開くまで何度でもおいしく飲めるのが特長。嬉野は玉緑茶日本一の産地であり、釜炒り茶と蒸製玉緑茶の2種類がある。江戸時代に大浦慶がうれしの茶を長崎から海外へ輸出しており、それが坂本龍馬や大隈重信の活躍する資金になったと言われている。近代日本の夜明けにもうれしの茶が一役買ったというわけである。
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- 嬉野温泉
- 轟の滝
歴 史
元寇
福岡 長崎
関連する物語
- 歴史解説
「蒙古襲来 海から見た歴史」(白石一郎著) - 小説
「北条時宗—元寇に挑んだ若き宰相」(浜野卓也著) - 小説
「蒼き海狼」(火坂雅志著) - 小説
「時宗」(高橋克彦著) - うんちくの旅
第一巻
9.九州国立博物館と国営吉野ケ里歴史公園及び原の辻遺跡
第二巻
12.元寇(国難を防いだ九州パワー)
観光情報
- 筥崎宮(福岡市東区)
- 元寇防塁跡
(福岡市西区今津・生の松原・早良区西新七丁目) - 元寇史料館
(福岡市博多区東公園) - 元寇の碇(壱岐市芦辺町)
- 壱岐神社(壱岐市芦辺町)
- 安国寺(壱岐市芦辺町)
物語の概要
- 鎌倉時代、大陸を支配していた元及び属国高麗が日本侵略を謀って二度にわたって日本に襲来。この侵略戦争に対する日本側の呼称である。
- 最初の襲来「文永の役」(1274年)では対馬、壱岐を襲撃し、平戸鷹島の松浦党の本拠を全滅させ、壱岐守護代の平景隆を自害に追い込んだ。さらに博多・箱崎に上陸。名乗りを上げての一騎打ちなど、日本的な戦術が通じず、日本軍は苦戦したが、からくも内陸への侵略を阻止した。この際、博多市中と筥崎宮は炎上した。
- 二度目を「弘安の役」(1281年)という。「文永の役」後、元の皇帝クビライは二度、特使を日本に派遣したが、鎌倉幕府の北条時宗はいずれも処刑した。そのため和議の手段はないと再び攻め入った。しかし、日本軍はすでに博多沿岸に約20キロの防塁を築いていた。元軍は防塁のない志賀島に攻め入ったが、日本軍に切り込まれた。ゲリラ戦術による日本軍が優勢に立ち、さらに暴風雨によって元軍の軍船は攻撃不能になった。この好機を捉えた日本軍が猛攻撃をかけて元軍を殲滅した。
- 元寇襲来では長らく二度とも「神風が吹いた」とされるが、「文永の役」に関しては日本・高麗双方の史料に「暴風」「台風」等の記述はない。気象学的にも整合しないことが判明している。
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- 西区歴史よかとこ案内人連絡協議会(ボランティアガイド)
歴 史
鉄砲の伝来
鹿児島
関連する物語
- 映画
「鉄砲伝来記」(1968年) - 歴史書
「鉄砲記」 - 宇田川武久
「真説 鉄砲伝来」 - うんちくの旅
第二巻
15.鉄砲伝来ものがたり
第三巻
31.亜熱帯、異次元の旅
観光情報
- 門倉岬
- わかさ公園
- 種子島開発総合センター(鉄砲館)
- 鉄浜海岸
物語の概要
- 1543(天文12)年、種子島の門倉岬に漂着したポルトガル人は時の種子島島主時尭に鉄砲を伝えた。
- 鉄砲伝来直後から種子島の鍛冶たちによって伝来銃の模造が試みられ苦難の末に成功した。鉄砲は瞬く間に日本中に伝播し戦国の時代と相まって主要な武器となり戦法や築城法も大きく変わった。
- 種子島に今も語り継がれる若狭姫物語がある。これは、鍛冶金兵衛が伝来銃の模造をする際にその技術を得ようと娘若狭をポルトガル人に嫁がせたというもの。その真偽のほどは定かではないが鉄砲国産化の苦労が偲ばれる。
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- 坂井神社の大ソテツ
- 千座の岩屋
- JAXA種子島宇宙センター
- JAXA宇宙科学技術館
- たねがしま赤米館など
歴 史
キリスト教の伝来
鹿児島
物語の概要
- 大航海時代にインド航路を開拓したポルトガル人は、当時東アジアで活躍していた倭寇と交易しながら、交易の範囲をさらに北に広げていた。このような背景のもとで、鉄砲とキリスト教に代表されるヨーロッパ文化は、鹿児島の地を窓口として相次いで伝来した。
- 1549(天文18)年8月15日、人をあやめインドのゴアに逃れていた薩摩のヤジローに案内されたイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸した。ザビエルは島津貴久と会見し、布教の許可を得、鹿児島で日本におけるキリスト教布教の第一歩をしるした。
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- 祇園之洲公園・石橋記念公園
- 鹿児島県歴史資料センター「黎明館」 など
歴 史
名護屋城
佐賀
関連する物語
- 小説
「戦国城塞傳」(津本陽著) - 映画
「乱」 - 映画
「梟の城」
観光情報
- 名護屋城跡
- 名護屋城博物館
〒847-0401 佐賀県唐津市鎮西町名護屋1931番3
物語の概要
- 肥前国松浦郡名護屋(現在の佐賀県唐津市鎮西町名護屋)にあった城。豊臣秀吉の文禄・慶長の役に際し築かれた。築城は1591(天正19)年後半に始まり、わずか数カ月で完成したといわれる。面積は約17ヘクタールで当時では、大阪城に次ぐ規模であった。金箔を施した瓦が出土しており、絢爛豪華であったことが伺える。現在でも立派な石垣が残り、当時の面影を伝えている。
- 慶長7年、唐津城の築城を開始した際、名護屋城を解体しその遺材が使用された。
- 大正15年11月4日国指定史跡となる。昭和30年8月22日特別史跡に指定された。
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- 唐津城
歴 史
天正遣欧少年使節
長崎、宮崎
関連する物語
- 小説
「少年讃歌」三浦哲郎 - 小説
「ローマを見た・天正少年使節」結城了悟 - 小説
「天正少年使節の中浦ジュリアン」結城了悟 - 小説
「遥かなるローマ」松永伍一 - 映画
「アジアの瞳」 - うんちくの旅
第二巻
29.九州キリシタン紀行(1)
30.九州キリシタン紀行(2)
観光情報
- 高屋温泉
(宮崎県西都市鹿野田) - 都於郡城址
物語の概要
- 天正10年(1582年)伊東マンショら少年4人を乗せた南蛮船がローマ、バチカンへ船出した。これが天正遣欧少年使節である。
- 天正遣欧少年使節は伊東マンショのほか、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノの4名。1582年2月に長崎を出航、約3年間の巡航の末、1585年3月にローマに到着した。当時のローマ教皇・グレゴリウス13世やスペイン国王に謁見するなど、ヨーロッパ各地で歓待を受け、彼らに関する出版物も多数発行されている。また、彼らはキリスト教についてばかりでなく、西洋音楽や印刷技術も学んで帰国。ヨーロッパの最新技術を日本に持ち帰った。その後、キリシタン禁制となったため千々石ミゲルは棄教、中浦ジュリアンと伊東マンショは殉教し、原マルチノはマカオに逃れ病死した。この使節はヨーロッパで、長く大事件として扱われ、その後来日した宣教師はもちろん、幕末に黒船で来航したペリーも知っていたといわれる。まさに大偉業といえる。
- 使節はヨーロッパから活版印刷機や海図などの先端技術を持ち帰った。
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- 中浦ジュリアン生家跡
- 天正遣欧少年使節顕彰之像
- 千々石ミゲルの墓
- 伊東マンショ肖像画(長崎歴史文化博物館蔵)
歴 史
キリシタン弾圧
長崎
物語の概要
- 1587年に秀吉が発した「バテレン追放令」に始まるキリシタン弾圧は、徳川幕府へと引き継がれ、多くの殉教者、棄教者を生んだ。
- 改宗を迫られたキリシタンは雲仙地獄へ連れて行かれ殉教したと伝えられる。長崎で捉えられたキリシタンは海路小浜へ入り徒歩で雲仙へ。途中改宗を迫り耳を切り落とした場所「耳採り」も地名として残る。最後の飲水場所は今も水を湛え当時を偲ばせる。
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- 島原観光ボランティアガイド
歴 史
二十六聖人殉教
長崎
関連する物語
- 歴史・伝記
「サン・フェリッペ号事件」 - うんちくの旅
第一巻
23.西海の天主と御堂巡礼 その[3]
第二巻
5.霊地・聖地に祈る その[3]
観光情報
- 時津民俗資料館(西彼杵郡時津町野田剛2番地)
- 長崎市西坂
「二十六聖人の碑」 - 時津港
「二十六聖人上陸の碑」
物語の概要
- 二十六聖人とは、豊臣秀吉の命令によって長崎で処刑された26人のカトリック信徒。
- 1597年2月5日(慶長元年12月19日)のできごとである。
- 26人のうち日本人は20名、スペイン人4名、メキシコ人・ポルトガル人それぞれ1名で、すべて男性。最年少は12歳の子供であった。
- 時津港に上陸したのは処刑の前日。翌朝、処刑地の西坂へと約3里(約12キロ)の道のりを歩き始めた。
- 時津港には「二十六聖人上陸の碑」が建てられている。
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- 時津街道
- 長崎市ボランティア観光ガイド
歴 史
アグネスの悲劇
熊本
関連する物語
観光情報
- 八代カトリック教会の殉教碑
- 麦島児童公園に殉教地を示す標木
物語の概要
- 慶長3年に加藤清正の改宗命令に従わず、麦島で殉教したシモン竹田の妻アグネスを主人公にしたオペラが18世紀のイタリアで作られた。このオペラが八代の市民グループによって上演される。
- このときの殉教者11名は、今年ローマ法王庁より福者に列せられることが決まっている。
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- ペトロ岐部カスイ神父殉教祭
- 京泊教会跡
- ガスバル西墓所
- 雲仙殉教祭
- 西坂の丘(長崎)
- 中浦ジュリアン顕彰碑
歴 史
天草・島原の乱
長崎 熊本
関連する物語
- 小説
「アニマの鳥」 - 小説
「奇蹟—風聞・天草四郎」 - 小説
「寛永の楔・小説天草四郎の乱」 - うんちくの旅
第一巻
20.天草四郎「サンチャゴ」の鬨の声
観光情報
- 本渡歴史民俗資料館
(天草市今釜新町) - 天草四郎メモリアルホール
(上天草市大矢野町) - 天草ロザリオ館
(天草市天草町大江) - サンタマリア館
(天草市有明町) - 天草コレジヨ館
(天草市河浦町白木河内)
物語の概要
- 天草・島原の乱(あまくさ・しまばらのらん)
- 関ヶ原の戦い後、天草は重い年貢に苦しめられ、更に全国的なキリシタン弾圧が始まる。1634年全国的な大凶作となり、天草でも飢饉が続き餓死者が続出。そんな中でも年貢の取り立ては厳しくキリシタンの探索・弾圧も容赦なく行われた。幕府の禁教令から25年後の1637年小西家の浪人などを中心に、天草と島原の農民たちが蜂起した。一揆の総大将は天草四郎時貞。島原・天草の男女3万7千人が十万余の幕藩軍事力と百二十三日間にわたって戦った。
関連観光情報 〜物語には直接出てきませんが、地域やテーマの関連する観光情報です。〜
- 島原城、島原温泉
- 島原観光ボランティアガイド
- 天草宝島案内人の会
歴 史
藍色の海
長崎
関連する物語
- 小説
「鄭成功」陳舜臣著 - 小説
「国姓爺」長谷川伸著
観光情報
- 鄭成功廟
- 鄭成功児誕石
- 鄭成功居宅跡
- 松浦史料博物館
(鄭成功関連展示物)
物語の概要
- 安部譲二 著
- 6万石の小藩平戸はいかに戦い、生き延びたのか?源平の戦い、元寇、キリシタン弾圧、明治維新と四度にわたる歴史的危機を乗り切った歴代当主の強運と智謀。
関連観光情報 〜物語には直接出てきませんが、地域やテーマの関連する観光情報です。〜
- 鄭成功生誕祭(7月14日)
- 平戸観光ウェルカムガイド
歴 史
隠れキリシタン
長崎
物語の概要
- 江戸時代に江戸幕府(徳川家光)によるキリシタン禁止令の後、強制改宗により仏教を信仰していると見せかけキリスト教を偽装棄教したキリスト教信者である潜伏キリシタンと、明治6年、禁教令が解かれ潜伏する必要がなくなっても、江戸時代の秘教形態を守りカトリックに戻らない信仰者の両者を特に区別せず指す。
- 後者は1873(明治6)年のキリスト教解禁後もキリスト教の原形をとどめないきわめて日本的な俗信と化した為、カトリックに復帰できず今なお独自の信仰様式を継承していて、「カクレキリシタン」と呼ばれる。
- 最近まで伝承が継続されてきた地域として五島列島などの地域、現在も信仰を継承している地域は、長崎県平戸市(旧北松浦郡)生月町、長崎市外海町がある。
関連観光情報 〜物語には直接出てきませんが、地域やテーマの関連する観光情報です。〜
- 平戸市生月町博物館
- 生月観音
歴 史
沖の島まいり
佐賀
関連する物語
観光情報
- 太鼓浮立
- ムツゴロウ王国夏まつり
物語の概要
- 有明海の沖合いにある小さな島で、地元の人々は「おんがみさん」や「お島さん」の名で呼んで、昔から信仰の対象としている。旧暦の6月19日に毎年行われる「島まいり」では、各地から旗やノボリを立てた船が島に集まり、島の祠に詣り浮立を奉納している。
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- 肥前仏舎利塔
- 乙宮神社
歴 史
高千穂採薬記
宮崎
関連する物語
観光情報
- 神楽宿
- 御大師様
物語の概要
- 江戸末期、大分県出身の賀来飛霞が延岡藩の依頼で藩内の薬草類を調査した記録。
- 滞在69日間で、藩内34か所を踏査し、千種類以上の薬草等を採取。草木類は168科842種を数え、中には新種も発見されている。また、オオカミやツキノワグマなどの動物も160種を調査、描写している。さらに山深い農家の食事事情、古代から伝わる民話などを詳しく聴きとり、記録し、江戸末期の高千穂地域の風俗を知る第一級の資料である。スケッチは撮影したように精度が高く美しい。賀来飛霞の数多い著作の中でも、出色のものといえる。
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- 現在でも浅ヶ部にはお大師様をお祭りしており旧暦3月22日にはお接待が行われている。かやぶきの民家も神楽宿というところに数個あり資料館も近くにある。
- 真名井の滝
- 道の駅「高千穂」
- 仙人の屏風岩
- 高千穂峡淡水魚水族館
歴 史
朝鮮通信使
長崎
関連する物語
- 小説
「魔岩伝説」荒山徹著 - 映画
「朝鮮通信使」
観光情報
- 対馬
- 対馬アリラン祭
物語の概要
- 朝鮮通信使は朝鮮国王が派遣した外交使節団のことで、江戸時代に12回にわたって来日した。
- 江戸時代の朝鮮通信使は、幕府の命を受けた対馬藩主が朝鮮へ使者を派遣し、これを受けた朝鮮側が使節団を編成したことに始まる。
- 朝鮮通信使は。まず船で対馬に渡り、瀬戸内海を経由して大阪に上陸し、中仙道から東海道を陸路として江戸まで往復していた。
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- 長崎県立対馬歴史民俗資料館
- 朝鮮国訳使殉難の碑
歴 史
葉隠
佐賀
関連する物語
- 「葉隠入門」三島由紀夫
- 「死ぬことと見つけたり」
隆慶一郎 - うんちくの旅
第一巻
50.偉人の生家(跡)で思うこと(佐賀・長崎編)
第三巻
7.九州の武道文化を探る旅
観光情報
- 葉隠発祥の地
(常朝先生垂訓碑) - 宝琳院
物語の概要
- 江戸時代中期(1716年ごろ)に出された肥前国鍋島藩藩士、山本常朝の武士としての心得について見解を「武士道」という用語で説明した言葉を田代陣基が筆録した記録である。全11巻。
- 「我が身を主君に奉り、すみやかに死に切って幽霊となりて二六時中主君の御事を嘆き」云々、没我的な主従道徳を鼓吹した。「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の文言はあまりに有名。常に死を意識して自省する態度を説く。文中、鍋島藩祖である鍋島直茂を武士の理想像として提示しているとされている。当時、主流であった山鹿素行などが提唱していた儒学的武士道を「上方風のつけあがりたる武士道」と批判しており、忠義は山鹿の説くように「これは忠である」と分析できるようなものではなく、行動の中に忠義が含まれているべきで、行動しているときには「死ぐるい(無我夢中)」であるべきだと説いている。この考え方は主流の武士道とは大きく離れたものであったので藩内でも禁書の扱いをうけたが、徐々に藩士に対する教育の柱として重要視されるようになり、「鍋島論語」とも呼ばれた。
- 葉隠は死を美化したり自決を推奨する書物では無い。葉隠の中には嫌な上司からの酒の誘いを丁寧に断る方法や、部下の失敗を上手くフォローする方法、あくびをしないようにする方法等、現代のビジネス書や礼法マニュアルに近い内容の記述が殆どである。軍国主義を推奨した書物と云う誤解から一時は禁書扱いもされたが、近年では生活に根ざした書物として再評価されている。
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- 勝妙寺
歴 史
五庄屋
福岡
関連する物語
観光情報
- 大石堰
(うきは市浮羽町古川) - 長野堰、長野水神社
(うきは市吉井町桜井208-1付近)
物語の概要
- 筑後川沿岸の浮羽地方は、筑後川の水を田に引くことができず、日照りや水害で作物が取れないことがしばしばあった。
- 1663(寛文3)年、現うきは市吉井町江南地区の5人の庄屋が、筑後川の水を平野に引こうと測量、計算などを行い、筑後川に堰をつくり溝を掘り、水を引き入れる工事の計画をたてた。
- 近隣の庄屋も加わり11人の庄屋が、有馬藩に工事許可の請願書を出した。
- 藩の許しが出、多くの人々が働き、寛文4年に堰や水路が完成した。筑後川の水を平野に引き入れることができた。
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- さいのき川付近の散策(うきは市吉井町)
歴 史
長崎造船所
長崎
関連する物語
観光情報
- 三菱重工
「長崎造船所」資料館
物語の概要
- 大型船造修所建設の必要性を痛感していた、長崎海軍伝習所の初代所長:永井玄蕃頭尚志は、職権で建設を決断。オランダに発注し1861(文久元)年、日本初の本格的洋式工場「長崎製鉄所」が竣工した。
- その後、幕府から明治政府に、技術指導もイギリス人技術者、フランス人技術者に引き継がれたが経営状態は思わしくなく、1887(明治20)年に三菱に払い下げられた。
- 民営化された工場は、海外からの技術導入など積極経営で発展。以来、長崎造船所は明治、大正、昭和を経て現在までに実質約1800隻の船舶を建造。各時代を映した代表的な船舶も数多く手掛けている。
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- 長崎市観光ボランティアガイド
歴 史
キリシタン復教
長崎
物語の概要
- 1864年に大浦天主堂が完成。翌1865年2月17日ジラール教区長により「日本26聖人殉教者天主堂」と命名。
- 1ヶ月後の3月17日、当時「フランス寺」と呼ばれていた天主堂には西洋風の建物を見ようと見物人が大勢いた。その客にまぎれて浦上のキリシタンたちがやって来た。聖堂内で祈るプチジャン神父に近づき、「ワタシノムネ、アナタトオナジ」(自分たちも同じ信仰を持っている)とささやき、「サンタ・マリアの御像はどこ?」と尋ねた。プチジャン神父は大喜びで彼らをマリア像の前に導いた。
- その後、長崎県の各地、福岡からもキリシタンたちが名乗りをあげにやってきた。
- 250年もの間、表面は仏教徒を装いながら、信仰をまもり続けた隠れキリシタンと呼ばれる信者達がいたことが明らかになった。
- 世界宗教史上、類まれなこの出来事がマリア像の前で起こったので「信徒発見のマリア像」と呼ばれるようになった。
- しかし、このことが「浦上四番崩れ」と呼ばれる弾圧へとつながっていく。
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- 長崎市ボランティア観光ガイド
- 26聖人殉教の地
- 平和公園
歴 史
亀山社中
長崎
関連する物語
- 小説
「竜馬がゆく」
司馬遼太郎著 - 小説
「石の扉」加治将一著 - テレビドラマ
「竜馬の黒幕」 - うんちくの旅
第二巻
34.坂本竜馬と九州ゆかりの地
観光情報
- 亀山社中跡
- 竜馬通り
- 竜馬のブーツ像
- 風頭公園
物語の概要
- 1865(慶応元)年、坂本竜馬が自分たちの理想を実現させるための結社を創った。これが日本最初の商社「亀山社中」
- 徳川幕府の倒幕を目的とした活動を行うとともに、当時貴重だった蒸気船運用の技術を活かして、船の回送、船による人員・物資の運搬などの運輸業、軍艦・銃器の購入・斡旋などの商業活動をしていた。
- 1867(慶応3)年、亀山社中は土佐藩に付属することになり、「海援隊」と改名。
- 現在でも彼らが住んだ亀山社中の建物の一部が残っている。
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- 長崎市ボランティア観光ガイド
歴 史
薩英戦争
鹿児島
関連する物語
- 小説
「生麦事件」吉村昭著 - テレビドラマ
「篤姫」
観光情報
- 尚古集成館
- 仙巌園
- 天保山砲台跡
- 祇園之洲公園砲台跡
物語の概要
- 1862(文久2)年に起こった生麦事件で、薩摩藩はイギリスの要求を拒否し、戦争の準備を着々と進めた。イギリス艦隊は、本国からの訓令に基づいて、1863(同3)年、7隻が鹿児島に来航した。
- 同年7月2日イギリス艦隊は行動を開始、荒天の中で激しい交戦が続いた。イギリス海軍で開発されたばかりのアームストロング砲によって、鹿児島城下の砲台や集成館などを攻撃し、ことごとく破壊した。薩摩藩側も軍備は劣るものの士気が盛んで、訓練も十分であったので互角に戦った。藩はこの戦争で攘夷の不可能を悟り、藩論を開国へ大きく転回した。
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- 維新ふるさと館
- 鹿児島県歴史資料センター「黎明館」など
歴 史
薩摩藩英国留学生
鹿児島
物語の概要
- 薩英戦争に強い衝撃を受けた薩摩藩は、五代友厚の上申書を受け入れ、島津斉彬の意志を継いで欧米への留学生派遣を実現させた。
- 1865(慶応元)年、薩摩藩は西洋の文化を取り入れ、藩の近代化を図るため、町田久成・村橋久成・森有礼・畠山義成ら留学生と視察員あわせて19名をイギリスに派遣した。かれらは、密航という形で、串木野の羽島からグラバー商会の汽船で出発した。約2か月後、彼らはイギリスのサウサンプトン港に到着した。彼らはそののち、ヨーロッパ各地から留学の成果や海外情報を書き送り、藩の進むべき方向に示唆を与えた。
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- 鹿児島県歴史資料センター「黎明館」
- 維新ふるさと館など
歴 史
西南戦争
熊本 宮崎 大分 鹿児島
関連する物語
- 歌謡・民謡
「田原坂」 - 小説
「西郷隆盛」 - 小説
「飛ぶが如く」 - テレビドラマ
「飛ぶが如く」 - テレビドラマ
「田原坂」 - うんちくの旅
第一巻
14.西南戦争(鹿児島〜宮崎〜熊本)
第二巻
13.明治の群像 その[1]
観光情報
- 史跡 田原坂公園
- 熊本城とその周辺
- 高瀬の会戦
- 山鹿口の戦跡
- 八代、人吉、五木
物語の概要
- 西郷隆盛は、朝鮮問題に対する考え方の違いから中央政府を去り下野した。彼を慕い多くの若者が帰ってきたので、西郷は彼らを教育するための私学校を作った。
- そのころ、鹿児島では独自の県政が行われ、他県との歩調がそろわなくなっていたので、政府はいろいろな対策をとった。この政府のやり方に不満をもった私学校生徒は、1877(明治10)年1月末、政府の火薬庫を襲った。ここに西南戦争が始まり、2月22日熊本城総攻撃が始まった。谷干城率いる籠城軍は約3300。薩摩郡の猛攻に銃砲によって応戦した。第二次総攻撃にも熊本城は落ちず、西郷軍は熊本城強攻策から長囲策に変更し、熊本城包囲軍と北上して南下してくる政府軍を迎え撃つ作戦をとった。2月下旬先頭は熊本県北部で展開し始めた。同時高瀬から熊本に至る道路で大砲が通る道幅があるのは田原坂の道しかなく、政府軍は田原坂の確保が絶対に必要だった。政府軍は田原坂と吉次峠に猛攻撃をかけ、17日間にわたる激闘を展開した。
- 政府軍は総攻撃を決行、田原坂を確保した。3月19日衝背軍が上陸し、西郷軍を破り、熊本城に入った。粥をすすりながら持ちこたえた籠城は50日余で終わった。後退した西郷軍は鹿児島に帰還、城山により徹底抗戦を続けたが、9月24日政府軍5万が総攻撃、西郷軍を壊滅させた。
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- 熊本城レディーズガイド
- 玉名観光ガイド・ボランティアの会
- 田原坂公園ボランティアガイド
歴 史
八幡製鐵所
福岡
物語の概要
- わが国初の近代的一貫総合製鉄所として、1901(明治34)年に福岡県八幡村(現北九州市八幡東区)で操業を開始した。大陸からの鉄鉱石、筑豊の石炭と原材料の供給に恵まれ、しだいに規模を拡大。日本の近代化・工業化を根底から支えた。
- 第2次大戦後は、アメリカから第一線技術者を派遣。わが国からもアメリカへの技術調査団を派遣し、合理化と技術開発を学んでいった。
- 八幡地区と戸畑地区を結ぶ約6kmの専用鉄道(八幡製鐵鉱滓鐵道 くろがね線)を所有している。
- 1901年の作業開始式には小倉赴任中の森鷗外も出席した。
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- スペースワールド
- いのちのたび博物館
- 北九州市観光案内ボランティア
歴 史
万田坑
熊本
関連する物語
- テレビドラマ
「青春の門—筑豊篇」 - うんちくの旅
第一巻
54.近代産業遺構を学ぶ その[4](南九州・西九州編)
第二巻
35.日本をリードした近代化産業遺構〈石炭編〉
第三巻
15.〜広い範囲で〜世界遺産を目指す
観光情報
- 万田坑跡
- 万田炭鉱館
- 万田坑ファン倶楽部
(ガイド)
物語の概要
- わが国最大規模の竪坑。大正から昭和にかけて、各施設を電化するなど設備や機械も充実し、出炭量も増大していった。昭和2年からの19年間に年平均86万トンを出炭している。
- 昭和26年採炭を中止し、第一竪坑などが解体されるが、第二竪坑は平成9年3月まで施設が維持された。
- 現在、第二竪坑・ヤグラ、巻揚機室、倉庫及びポンプ室、安全燈室及び浴室、事務所、山ノ神祭祀施設などが保存されており、平成10年5月1日、国の重要文化財に指定された。また第一竪坑跡、汽罐場跡、坑内トロッコ軌条、職場、プラットホーム等が遺存し、炭鉱のシステム(採炭、選炭、運炭)が分かるため、炭鉱施設としてはわが国では唯一、平成12年1月19日、国史跡として指定された。
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- 宮崎兄弟資料館
- 岩本橋
歴 史
人間魚雷『回天』
大分
関連する物語
- 映画
「出口のない海」
観光情報
- 人間魚雷「回天」基地跡
- 回天神社
物語の概要
- 人間魚雷「回天」は太平洋戦争末期、日本の敗戦が濃くなる中、海軍によって考案され、昭和19年に山口県の大津島に最初の回天基地が設けられた。
- 戦局の更なる悪化とともに、回天は決戦兵器として期待され、乗員の確保が急務となり、昭和20年に日出町に大神訓練基地が造られ、4月25日に大神突撃隊が開隊した。
- 大神基地で訓練された搭乗員や整備員は、8月3日に愛媛県西海町に第21突撃隊第11回天隊として配備されたが、出撃することなく終戦を迎え解隊した。
- 現在、回天基地跡には、水雷壕、回天格納庫、実用頭部格納庫などといった幾つもの岩穴が残っている。
- 回天神社は、最初に大神突撃隊庁舎内に祀ってあったが、終戦後の昭和21年に元隊員の懇願により、住吉神社の境内に遷座された。
- 人間魚雷回天の特別特攻隊員の英霊を祭る「回天神社が存在するのは、ここ大神だけであり、回天の1/3模型と、海中より引き上げられた九三式魚雷後部が展示されている。
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- 軍艦海鷹之碑
- 小田三郎先生殉職碑
歴 史
浦上天主堂
長崎
関連する物語
- 随筆
「長崎の鐘」 - 映画
「長崎の鐘」 - 歌謡・民謡
「長崎の鐘」 - うんちくの旅
第一巻
21.ザビエルと西海の天主と御堂巡礼その[1]
第一巻
23.西海の天主と御堂巡礼 その[3]
第二巻
5.霊地・聖地に祈る その[3]
観光情報
物語の概要
- 浦上天主堂は大正15年に完成。赤レンガ造りのロマネスク式の教会は当時東洋一と言われていた。
- 1945(昭和20)年8月9日、午前11時2分、原子爆弾の炸裂により爆心地から約500mの至近距離にあった天主堂は破壊され、わずかにまわりの壁を残すのみとなった。
- 浦上地区約12,000人の信徒のうち8,500人が爆死したといわれる。
- 現在の天主堂は昭和34年、往時のロマネスク式で再建。天主堂に上る道の両側には原爆で焼かれた天使像が並んでいる。
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- 長崎市観光ボランティアガイド
歴 史
「原爆の火」絵本
福岡
関連する物語
- 映画
「原爆の火—零時三分前—」
観光情報
- 星野村 平和の塔
- 星野村平和記念式典
物語の概要
- 1945年8月6日午前8時15分広島市に原始爆弾が投下された。星野村出身の山本達雄さんは、市内に住む叔父さんの安否を調べるため、広島市内に向かった。そこで、せめてもの遺品になるものをと思い、そこに燃え続けている小さな炎を、カイロに転火し、自宅に持ち帰った。山本さんはその後、持ち帰った火を仏壇に灯し、戦後23年の間家族の手によって守り続けた。その後1968年星野村がその火を引き継ぎ、現在星野村平和の塔において、恒久平和を願って灯し続けられている。
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- 星野村観光アドバイザー
- 星の文化館
歴 史
ヘレンケラー来仙
長崎
関連する物語
- 映画
「奇跡の人」
観光情報
- 雲仙温泉
- ヘレン・ケラー自らがサインした宿帳が残っている。そのほか、雲仙でのスナップ写真など。
物語の概要
- ヘレン・ケラーは、1937(昭和12)年5月29日〜31日長崎での講演後、休養を兼ねて2泊3日の雲仙旅行を楽しむ。
- 《エピソード》日本の温泉には混浴があることを知っていたヘレンは、雲仙ではじめてその混浴を体験。お風呂では「私はゾウ、秘書のポーリーさんには「あなたはアザラシ」と名づけ、雲仙の温泉を楽しんだ。「これがアメリカにばれたら大変なことになるわ!」といいながらも湯船の中を走ったり、水を掛けたりと大騒ぎしたという。
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- 島原観光ボランティアガイド
歴 史
照和ライブハウス列伝
福岡
関連する物語
- 映画
「ラストソング」(1994年)
観光情報
- ライブハウス「照和」
物語の概要
- 1970(昭和45)年、福岡市の天神に誕生したライブ喫茶。『照和』という名は70年安保でゆれる時代、「世の中を明るく照らしたい」というオーナーの願いが込められている。
- ノーギャラ、ノーノルマという独特のシステム。オーナーの注文は「火事に注意」だけであったという。
- その後、チューリップ、甲斐バンド、井上陽水、武田鉄矢、長渕剛などのスターが次々に誕生し、日本中に「照和」の名が知られるようになった。
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- 大濠公園
- 西公園